てしがなかった。そして、口論の最中に俄に沈黙が落ちて来た。苛ら立った憤りが、じりじりと胸の奥に喰い込んでいった。……とは云え、いつもはそれきりで済むのであったが、不幸にも、丁度その時速達郵便が玄関に投げ込まれた。「速達!」という配達夫の声に、「はい。」と秀子は答えたが、立っては行かなかった。その様子と、「はい。」という返事の落付いた調子とに、私は赫となった。
「取っといで!」と私は怒鳴った。
秀子は黙っていた。
「取っといでったら!」と私はまた怒鳴った。
秀子は眉根をぴくりと震わしたまま、じっとしていた。私はじっとして居れなかった。枕を取るが早いか、それを秀子めがけて投げつけた。枕は的を外れて、縁側の障子に当り、障子の中にはまっている硝子を一枚壊した。その物音にみさ[#「みさ」に傍点]子が泣き出した。秀子はそれを抱き取った。私は眼をつぶって仰向けに寝転んだ。
硝子の壊れた音を聞きつけて、台所からはる[#「はる」に傍点]がやって来た。秀子ははる[#「はる」に傍点]に硝子の破片を掃除さした。そして、はる[#「はる」に傍点]が向うに立ってゆき、子供が眠ってしまった後、秀子は私の方へ坐り直して云った。
「あんな野蛮なことをなすって、もしみさ[#「みさ」に傍点]子が怪我でもしたらどうします!」
私は飛び起きて、歯をくいしばった。掃除がすみ子供が眠ってしまってから、冷かに真剣に談判を初めたのだ。彼女はまた云った。
「卑劣な! 自分に恥じなさるがいい。」
その言葉を聞いて私は我を忘れた。「自分に恥じるがいい。」とは、私が彼女を責むる時によく用いた言葉である。その言葉が如何に苛ら立った心を刺戟するかを、私は初めて知った。私は身体を震わしながら、右の拳を振り上げた、そして叫んだ。
「何だ、も一度云ってみろ!」
「ええ幾度でも云います。」と彼女は甲走った声で答えた。「卑劣です。野蛮です。私を打つつもりなら、打ってごらんなさい!」
私は振り上げた右の拳を打ち下し加減に、彼女の肩を押して突き倒そうとした。彼女はその手にしがみついて来た。もう仕方がなかった。取られた手で彼女を其処に引きずり倒し、左手で彼女の頬に一つ強打を喰わし、立ち上りさま、彼女の腰のあたりを蹴飛した。彼女はがくりと畳の上に倒れ伏したが、その執拗な手先はなお私の着物の裾に取りついてきた。私は彼女が理性を失いかけて
前へ
次へ
全40ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング