。……ああ、何という無知な言であるか! 然し、私は彼女ほどは子供を愛していなかったのかも知れない。
 斯かる反目の或る時――みさ[#「みさ」に傍点]子が泣きしきるのを私が知らない顔で放って置いた時、一寸台所に立って行ってた秀子は、急いでやって来るなりすぐにこう云った。
「あなた位勝手な人はない、私に怒ると子供にまで怒りなさるんだから。」
 私は黙って答えなかった。明かにその通りだったのである。私は秀子に対して腹が立つと、子供に対してまで腹が立つのだった。彼女に対する憤懣の余には、子供に当りちらすことさえあった。私はそれが人の父たる態度ではないことを知っていた。然しどうも仕方がなかったのだ。……そして私に対する彼女の不満や反感は、其処から芽すことが多かった。
 私の気分がどうであろうと、また彼女自身の気分がどうであろうと、彼女に取っては、みさ[#「みさ」に傍点]子は絶対的なものであった。
「私はどんなに怒っていても、子供にまで当り散らすようなことはしない!」それを彼女は矜りとしていた。その矜持の地点から、私を見下して軽蔑した。「あなたは私をヒステリー的だと仰言るけれど、子供にまで当り散らす所は、あなたの方がよっぽどヒステリーだわ。」
 然し私には、彼女のような感情の使い分けは出来なかった。職業に対する見解の相違や(その当時私は気楽な職があったら勤めてもいいと思って二三の知人に頼んでいた)、隣近所との交際に対する意見の衝突や、広く道徳上の議論などに於て、互のうちに不融和なものを見出す時、私はいつも陰鬱な気分に沈んでしまった。彼女も口を噤んで反抗的な態度を見せた。そういう時でも彼女は、子供に対してにこやかに笑いかけ、少しもわだかまりのない愛撫を示した。私は冷然とそれを見やった。彼女は私の心を見て取って、わざわざ子供を私の方へ差し出したりした。それは私の気分を和らげんがためではなく、子供を武器として私を頭から圧倒せんがためであった。私がなお冷然と構えていると、彼女は一寸皮肉な微笑とも苦笑ともつかない影を、口元に漂わせた。如何に私が反抗しても、最後の勝利は自分にあると確信しているのだ。それが私は癪に障った。子供が母親の膝の上で、そして私のすぐ眼の前で、訳の分らぬ音声を二三言発しても、声を出して笑っても、急にわっと泣き出しても、私は平然として見向きもしなかった。彼女も遂に我慢を
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