母はひっかかりました。何が食べたいといって、お鮨にこしたものはなく、お鮨さえ充分食べたらもう本望だと、淋しそうに言いました。妹はそれを笑って、ショートケーキが一番食べたいと言いました。カステーラよりもっとふわふわして、はるかに甘く、とろりとしたクリームがかかっていて、苺や林檎や桃があしらってある、あれが一番よいと述べ立てました。鮨やショートケーキなら、戦死した弟も好きでした。或は母と妹は、弟が好きなことを意識して言ってるのかも知れませんでした。二郎もそれが好きだったよと、彼がうっかり言いますと、母と妹はちょっと話を途切らしました。
 遠くに稲妻と雷鳴とがあるだけで、夜気は静まり返り、狭い庭の隅には、秋を思わせるような虫の声がしていました。母と妹はまた食物のことを話しだしました。母はもうだいぶ弱っていました。白髪染めをやめたせいか、頭髪に白いのが目立ち、腰が曲ってきたせいか、背丈が縮んだようでした。頬のたるんでる色白の顔が、却っていたいたしく見えました。以前は何事も手早く取り片付けていたのに、この頃では、長い間かかって抽出の中などをかきまわしてることがありました。食事の後も暫くは坐りこんだままで、立つのが大儀そうでした。妹も母に似た顔立で、色が白く頬がふっくらしていて、そして背が低く小柄でした。食事の後も、母と調子を合して容易に立とうとしませんでした。
 風が吹きだして、雨が来そうな気配に母と妹は戸外へ注意を向けて、暫し黙りこみました。その二人とも、へんに淋しく頼りなさそうでした。良人を亡くしてから貧しい生活を続けてきた五十歳過ぎの母、いずれはどこかへ縁づかなければならない二十四歳の妹、二人とも、気力も体力も弱そうで、そして家庭には、戦死した弟の占めていた場所が新たな空虚を拵えていました。その淋しく頼りない存在の母と妹が、粉食ばかりに弱っていて、矢野さんところの残飯を有難がり、そして昔の夢を追って、鮨やショートケーキの架空な話を楽しんでるのでした。
 そこへ、いよいよ雨が来て、雷鳴が激しくなり、それから、近くに雷が落ちました。
 落雷の衝撃は、母と妹の心身を打ち拉ぎ、次で昂奮さしたかも知れませんが、一郎にとっては、その哀感を深めるだけでした。彼は自分自身をも、哀感の硝子張りの中に眺めました。雷に裂かれたあの欅を悲哀に似た決意で眺めた自分自身も、残飯の弁当をつっついてる自分自身も、そこにありましたし、更に、会社の謂わば残飯を貪ってる自分自身も、そこにありました。
 この金網工場は、社長矢野専之助のいろいろな事業の僅かな一部に過ぎず、経営万端は殆んど専務水町周造に一任されていました。終戦後、一年にもなるのに、生産はまだ休止されて、職工たちはただ遊んでいました。新たな仕事が計画されている様子もありませんでした。時々、いろいろな資材、殊に針金の類が、密閉されてる倉庫から運び出されて、闇売買の種になってるようでした。そして事務関係の人員も、まだ大部分残って、仕事がないのをよいことにして少い給与に甘んじていました。ただ不思議なことに、勤務時間だけは厳格でした。その時間中、会社の中に拘禁されてるのと同じでした。読書とひそかな無駄話が時間つぶしでした。小さな文庫がありまして、政治経済文学などの書物が雑居していました。軍国主義の書物もまだそのまま残っており、童話の書物も交っていました。社員たちは勝手に濫読し、或は無意味にただ眼を活字に曝しました。それらの書物のなかに、立川一郎は読みたいものも見出さず、少数の古雑誌にも倦きると、新聞で時間をつぶしました。新聞紙の隅から隅まで広告の最後の一行まで、丹念に見てゆくと、僅か二頁の新聞でも相当な時間がかかりました。
 会社がこれからどうなるものやら、そのようなことは誰にも分りませんでした。ただそこで無為な時間をつぶしさえすれば、多少とも生活の足しになるのでした。労務員の方には、仕事はないのに組合だけ出来ていましたが、事務員の方にはそれさえありませんでした。空白な日々が同じように過ぎてゆきました。屈辱なほどの佗びしい生活でした。
 その上、秘書主任の三宅弘子に、立川一郎は特別な引け目を感じていました。眼鼻立の尋常ないくらか長めの顔が、すらりとした体躯に比べて、へんに大きく見える女で、戦時中も終戦後も、いつも香水の匂いをさせていました。その秘書主任が、どうしたわけか、時折、映画や芝居の切符を彼にくれました。彼が便所に行く時、彼女は素知らぬ風で後からついて来て、にっこり笑みながら切符をくれました。彼女は専務水町周造と愛慾関係があるとかいうことでしたが、真偽のほどは分りませんでした。或る同僚は立川に、彼女の機嫌を損じてはいけないよと、仔細らしく注意したことがありました。そのため、というほど意識的ではありませんでした
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