江は不思議そうに眺めた。
「なあに、病気なんかするものか。尻が重かっただけさ。それを、どうだい、僕がむりやりに引張ってきたんだ。」
「あらそう。有難いわね。」
「まだ早い。実は、そのくせ、来たくてたまらなかったんだからね。まあ一ついこう。」
千代次はなみなみとうけて、一息に干した。それを中江に返してから、ひょいと考えこんだ。斜視めいた眼が宙に据って、頬の血色の乏しさと相まって、一寸人の気を惹く。頽廃の一歩前の美しさだ。鬢の毛が目につかないほどに震えている。そのくせ、細そりした上半身は静まり返って、どこで息をしてるのか疑われる。じっと村尾の様子に目をつけてその眼を中江の方にずらしてきた。
「どうしたの……何だか変だわね。」
「そりゃあ、少しはね……。」云いさして中江は、じろりと村尾の方を挑戦的に見やった。「ヨタさんとは違うさ。」
それが、湖面に石を投げたようなもので、村尾の頬に微笑が描かれた。彼は何か他のことを考えてたらしい。それから引戻されて、微笑と共に千代次の顔をぼんやり眺めた。千代次は晴れやかに笑ってその視線を受けとめた。
「あら、つまんないことを饒舌ったのね。」
「つまんなかないよ。」と中江はいやにしつこかった。「ヨタさんと大いに違うってことさ。」
「どこがちがって?」
「全く違う。」
「何がちがうのよ。」
「男が違うんだ。」
「まあ変なことを仰言るわね。……お杯頂戴。」
千代次は立て続けにひっかけた。そして杯を中江の方にさしつけた。
「さあ、どこがちがうのよ。」
「どこもここも、世の中がみんな間違ってるんだ。」
中江はもう何のことか分らなくなってたらしい。単に両手をついて、とろんとした眼で千代次を見ていた。その態度が、千代次の気に障ったらしかった。頬が一層蒼ざめてきた。しきりに酒を飲んだ。
「そんなことを仰言るなら、あたしにだって云い分はあるわよ。ひとを馬鹿にしてるわ。ヨタさんが何なの。お客だから、大事にしているだけよ。どんな人だって、お客なら、大事にするのが商売よ。」
「浮気もね。」
「そうでしょうとも、どこかの、女給さんたちなら……。あたしは、そんな好き嫌いなんか、ちっとも持ってやしないんだから。男なんて、みんな同じじゃないの、浮気なんか、ばかばかしくって……。」
「なんだって……情人《いろ》とか恋人《こい》とかのことを云ってるんじゃないよ。」
「そんなもの、猶更じゃないの。あたし、好き嫌いなんかまるでないんだから、どうして、浮気なんかするのよ。」
「それじゃあ……みずてんじゃないか。」
「分んないのね。浮気なんか、ばかばかしいって云ってるじゃないの。あたしこれでも、娘さんと同じ気持よ。え、まだ分んないの。じれったい人ね。」
千代次は本当にじれったそうに、眉根を寄せた。中江も、分らなくて眉根を寄せた。
「分る。僕は分る。」
村尾がふいに叫んだ。そしてひどく沈痛な面持で、宙を見つめている。
「そう。有難いわ。あたし……中風でねているお父さんがあるし、抱えの身だし、つらいこともあってよ。」
彼女はほろりと涙をこぼした。そして、ご免なさい、と云って、笑ってしまったのだ。朗かな笑いだ。
中江は黙りこんでしまった。村尾はまた何か考えこんだ。座が白けて、変にうすら寒かった。
「何か弾きましょうよ。歌って頂戴。」
誰も返事をしなかったが、千代次は三味線を取りに立って行った。その後ろ姿をぼんやり見送って、村尾は云った。
「本当の労働者だ。僕はまいっちゃった。」
「なあに……。」と云いかけて中江はやめた。そして両手に頬をもたせて下を向いたまま、云いなおした。「そして永遠の処女か。君の所謂慾なんか、少しも持ち合していない。あんなのが、本当のマルクス的だ。どんな強権主義のなかにも生きられる。惚れちゃいかんよ。」
村尾は淋しい苦笑を洩した。千代次の元気のいい足音が廊下に響く……。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
1932(昭和7)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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