「そんなもの、猶更じゃないの。あたし、好き嫌いなんかまるでないんだから、どうして、浮気なんかするのよ。」
「それじゃあ……みずてんじゃないか。」
「分んないのね。浮気なんか、ばかばかしいって云ってるじゃないの。あたしこれでも、娘さんと同じ気持よ。え、まだ分んないの。じれったい人ね。」
千代次は本当にじれったそうに、眉根を寄せた。中江も、分らなくて眉根を寄せた。
「分る。僕は分る。」
村尾がふいに叫んだ。そしてひどく沈痛な面持で、宙を見つめている。
「そう。有難いわ。あたし……中風でねているお父さんがあるし、抱えの身だし、つらいこともあってよ。」
彼女はほろりと涙をこぼした。そして、ご免なさい、と云って、笑ってしまったのだ。朗かな笑いだ。
中江は黙りこんでしまった。村尾はまた何か考えこんだ。座が白けて、変にうすら寒かった。
「何か弾きましょうよ。歌って頂戴。」
誰も返事をしなかったが、千代次は三味線を取りに立って行った。その後ろ姿をぼんやり見送って、村尾は云った。
「本当の労働者だ。僕はまいっちゃった。」
「なあに……。」と云いかけて中江はやめた。そして両手に頬をもたせて下を向いたまま、云いなおした。「そして永遠の処女か。君の所謂慾なんか、少しも持ち合していない。あんなのが、本当のマルクス的だ。どんな強権主義のなかにも生きられる。惚れちゃいかんよ。」
村尾は淋しい苦笑を洩した。千代次の元気のいい足音が廊下に響く……。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
1932(昭和7)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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