附のいい重い尻をずらして、呼鈴を鳴らして、ねえさん、熱いのを下さいなと、涼しい顔をしている。かと思うと、卓によりかかって、揶揄するように僕の顔を眺めながら、口移しに煙草の煙を吸わしてくれる。何一つ取留めたこともないのだ。ただ一つあるとすれば、こんど三越のホールで常盤津の会があって、自分も一寸出ることになっているから、是非来てくれと、切符を一枚僕にくれた。
 その会に行くべきか否かが、僕にとっては重大な問題だった。虫が知らしたとでもいうのだろう。当の日曜日の午過ぎまで躊躇したあとで、とうとう、一張羅のお召に草履という僕には不似合な姿で、一寸顔を出してみることにした。母がラジオの清元を楽しんでるのが、僕の決心の動機の一つだった。そういう逡巡のために、彼女……というよりここでは千代次と呼んだ方がいいが、その唄を聞きもらしてしまった。芸者衆ばかりの踊と素唄とを交えた常盤津の会で、千代次は始めの方の『松島』の唄の一人に出たのだった。それに間に合わなかったのを、僕は却って幸だと思った。後で批評を聞かれた時に困るのだ。常盤津のことなんか僕には更に分らない。全部の番組のうちで、元来能に興味を持ってる僕は、『釣り女』の踊に少しばかり感興を覚えただけだ。然しそんなことは初めから予期していた。予想に反したのは、観客全体の黒っぽさだ。会の性質上、そこにはぱっと明るい色彩が展開されてることと思っていた。派手な色彩と香料との温室だ。ところが実際は、室の中は冷かだし、香料は淡く、色はくすんでいる。痩せた浅黒い顔がいくらもあるし、背広服の男が多数だし、女は大抵じみな着物に、黒の紋付なんかをひっかけている。そしてそんなところで見る芸者は、へんに栄養不良だ。僕は満員の場内の後ろの壁際につっ立っていたが、ともすると外の廊下に足が向いた。そこの寂しい長椅子にぽつねんと腰を下して、煙草でも吹かしている方が、気楽だ。やがて、番組の合間に、がやがやと人が出てきて賑かになる。暫くすると、それがみな扉に吸いこまれていってひっそりとなる。平磯の波の届く巖の上にいるようなものだ。ところが、そのがやがやとした波の時に、僕ははっとして飛び上った。
 僕の勤めている商事会社の社長が、にこにこした顔で前に立っているのだ。五十歳ほどの、働き盛りの男だ。黒の背広に縞のズボンをはいて、チョッキの胸に細い金鎖を一筋張り渡している。

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