一人の女に恋する……とまではいかなくとも、一人の女を愛する、ということは、よいことだ。僕のようなみじめな勤め人の生活では、それが一条の光と張りとを齎す。ただ、僕の場合は金がかかった。現金がなくてすむという便宜があるだけに、そしてそれが実は食慾よりも愛慾の方を僕に択ばした理由の一つではあるが、そのために却って無駄なことをしたり度々彼女に逢いに行ったりして、後で困ることになる。いくら待合だからといっても、時には多少の金を入れなければ義理がわるい。病中の費用なんかは、母が大事な貯蓄でどうにかごまかしてくれたらしいが、其他のことまで母におんぶするわけにはいかない。僕は友人から金を借りた。口実を設けて、社長から賞与の前借をした。僕一身に関する他の方面の支払を停止した。が、それでも足りない。彼女に贈るべき指輪が買えるどころか、また実際そんなものがどれほどするか知りもしなかったが、懐中はいつも淋しく、喜久本《きくもと》へはだいぶ払いがたまっていた。どうにかしなければならない、と考えるのだが、そのどうにかという必要が、いつも、一日一日と先へ送られてゆく。今日の日が暮れると、その勢で、必要が一日先に押し出される。毎日毎日を通じて、必要という棒をむりやりに押し進めてるようなものだ。而もその棒は益々太く重くなるばかりだ。それと睥めっこをして、煙草をふかしながら、もしここに千円もあったらと空想する。僕の身分ではそれは大した金額だが、数字の上では一寸したものだ。会社の帳簿などの上では、マル一つで数万数十万が左右される。一桁の数にマルをつけると、百以下の差だし、二桁の数にマルをつけると、千以下の差だが、五桁の数にマルをつけると、十万乃至百万の差になる。同じマルにも、場合によってこんな価値の差があるのは不思議だ。マルを一つ取りこんでやれ。マルは零《ゼロ》ではないか。僕に零を一つくれと云ったら、人はどんな顔をするだろう。
「君の様子は少し変だ。まだ病気がすっかりなおってないんじゃないのか。」
そんなことを社の同僚が云う。或は少し変かも知れない。僕は一人の女を愛しているのだ。それに、大病の後転地保養もしないで出勤しているのだ。それにまた……これは愉快な思附だった。室の窓から、多くのビルディングの間をぬけて向うに、大きな気球広告が風になびいていた。気球の下には、不細工な文字が並んで馬鹿げた媚態を作
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