りすぎている。それから先のことが当面の問題である。
 それなら仕合せだ、と彼は云うのである。ところが実際に於いては、往々、通りすぎることが取失うことになる。人は食べたものを悉く消化吸収するものではない。大部分をそのまま排出する。だから、素朴な議論を何度もくり返す必要が生じてくる。殊に、文学が生活からの逃避場でなくなり、生活意欲を多分に含む時代に於て、そしてそういう時代に、ファシズムが流行したり、ボルシェヴィズムが勢力を得たり、あるいは新たな精神的――心理的――領土が開拓されたりする時に当って、これをなお云えば、欲望と強権主義とが相剋し、また、肉体と精神とが乖離する時に当って、益々その必要が生じてくる。現に、文学者たちの会合で、各人が一番窮屈なポーズをとってる事実は、その必要を立証する以外の何物でもない。光や色のことではなく、ヴォリュームのことを考えてる時には、人はもっと暢達たる風貌になるものだ。
 然し、余り素朴的にのんびりしていたのでは、結局凡俗に堕するのみだ、と私は考えるのである。
 その凡俗がいいのだ、と彼は主張する。フローベルがボヴァリー夫人を書き、ツルゲネーフがバザロフを書き
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