送っていって、それからまた二階の書斎へ上ったのですが、何かが気になって、また階下《した》へ下りてきたのです。すると、妻がいきなりこう云いました。
「まあ、嬉しそうにそわそわしていらっしゃること!」
 妻の皮肉な眼付とその言葉とが、僕の胸を鋭くつき刺したのは勿論のことです。
 そして僕はいつとはなしに、ぼんやり書斎に引籠って、妻のことなんかは頭の隅っこに放り出して、沢子の若々しい面影を眼の前に描き出してる自分自身を、屡々見出すようになりました。
 僕は妻を愛していたのでしょうか? 妻は僕を愛していたのでしょうか?……勿論僕達二人は、普通の意味では愛し合っていました。けれど、何かが、本当の切実な生活感が、深い所に潜んでるもの――それは後で申しましょう――それに対する自覚が、欠けていたのです。
 僕と妻とは結婚当初から可なりよく融和して、凡そ夫婦というものが愛し合う位の程度には愛し合いました。僕は大した深酒ものまず、道楽もせず、一種の学究者でして、生活が華やかでない代りに、至って真面目だったのです。妻は所謂良妻賢母といった型《タイプ》の女で、几帳面に家事を整えてくれました。で僕達はまあ幸福な
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