から話は外の方に外れて、彼等の間だけに通用する符牒の多い事柄にはいり込んだので、その声はまた高くなったが、昌作にはよく分らなかった。けれど昌作にとってはそんなことはどうでも構わなかった。彼の頭は聞き取った事柄の方にばかり向いていた。沢子が絵を習ってるということを、彼は嘗て夢にも知らなかった。それかと云って、宮原の話やなんかを考え合せると、それは確かに沢子のことに違いなかった。沢子が絵を習ってるのを今迄自分に隠していたということが、重く彼の胸にのしかかってきた。固より、沢子の以前の生活やその智力などを考えてみれば、彼女がこの喫茶店の女中になったのには何か他に理由があるに違いないとは、昌作にも推察されないではなかった。然し彼がそのことに話を向けようとすると、彼女はいつも言葉を外らしてしまった。しまいには彼も諦めて、彼女から云い出すまで待つことにしていた。所が今偶然、彼女が絵を習ってるのを知ったのである。それが、彼女自身の口からではなくて、偶然によってであるのが、昌作には不満だった。その不満から、徐々に、絶望に似た憂苦がにじみ出してきた。
 向うの連中が、春子に勘定を払って出て行った後、昌作
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