ってるのか素面《しらふ》なのか見当がつかなかった。昌作はぼんやりその顔を見つめた。と俄に、ぎいーとブレーキが利いて電車が止った。入口に先刻から素知らぬ風で向う向きに立っていた車掌が、大声に停留場の名を呼んだ。昌作は急な停車にのめりかけた腰をそのままに立ち上って、「失敬、」と口の中で云い捨てながら、慌てて電車を降りた。
 ――そうしたことが、いつもなら佐伯昌作の愉快な気分を唆る筈なのに、今は却って、寂寥と云おうか焦燥と云おうか、兎に角或る漠然たる憂鬱を齎したのである。九州の炭坑のことと橋本沢子のことが、同じ重さで天秤の両方にぶら下っていた。一寸した心の持ちようで、その何れかがぴんとはね飛ばされることは分っていた。それが恐しかった。自分の心の持ちようによってではなく、どうにもならない実際上の事柄によって、何れかに勝利を得させたかった。
 先ず九州の炭坑から……そして次に橋本沢子。
 そういう決心が、「木和田五重五郎」のことで妙に沈み込みがちになるのを、彼は強いて引き立てて、片山禎輔の家へ行ってみた。けれど、玄関から勝手馴れた茶の間へ通るうちに、重苦しい憂鬱がすっかり心を鎖してくるのを、彼は
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