いない、」と云いながら立上った。昌作も後に従った。俊彦は非常に重大な急用でも控えてるかのように、馬鹿々々しく帰りを急いでいた。足早に電車道をつき切って、タクシーのある所まで行ってそれに乗った。昌作も途中まで同乗した。二人は別れる時碌々挨拶も交さなかった。夜は更けていた。
 それらのことを眼前に思い浮べながら、彼はじっとしておれない心地になって、表に飛び出した。雨後の空と空気と日の光とが、冷たく冴えていた。彼は帽子の縁を目深く引下げ外套の襟を立てて、当てもなく歩き出した。歩きながら考えた。
 然し彼の考えは、長く一つの事柄にこだわってるかと思うと、それと全く縁遠い事柄へ飛んでいったりして、少しもまとまりのないものだった。がそのうちで、幾度も戻ってきて彼を深く揺り動かす事柄が一つあった。
 彼は宮原俊彦の話を、可なり自然にはっきりと受け容れることが出来たが、その終りの方、沢子と一緒になれないという所が、どうもよく分らなかった。生活の接木などという変な言葉を俊彦は用いたが、そんな深い重大なことではなく、何かごく平凡な――常識的な事柄が、彼を支配してたのであって、それへ無理に理屈をつけたものの
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