。正しいかどうかを問うんじゃなくて、本当か嘘かを問うんです。そして、そういう本当の心の方向へ進んでゆけば、結果はどうでも、常に悔いがないと僕は信じています。……君はそう思いませんか。」そして五六歩して、昌作の答えを待たないで、彼は俄に苛立った声で云い続けた。「勿論、先刻あすこから逃げ出した意向には、運命の動きなんか伴わなかったし、それかって、悔いも伴いはしませんが……。」
 昌作は我知らず微笑を洩した。
「けれどその反対に、あすこに残るとしましたら、その意向にもやはり、どちらも伴わないではないでしょうか。」
「そうです。腹を立てちゃ駄目ですね。」
 俊彦はじっと昌作の方を顧みて、五六歩すたすた足を早めた。それからまた足をゆるめながら云った。
「君は……僕は今晩沢子さんから聞いたんですが、九州の炭坑とかへ行こうか行くまいかと、迷ってるそうですね。」
「ええ。」
「そいつはどちらなんです?」
「どちらって?……」
「行く方と行かない方と、どちらに運命の動きが感じられますか。」
 昌作は答えに迷った。
「どちらにも感ぜられないんじゃないですか。」
「ええ。どちらにも感ぜられるようでもありますし、また感ぜられないようにも……。」
「それじゃあ、それも結局、柳容堂の二階に残ってるかどうかと、同じものですね。そして君も腹を立ててるという結論になるわけですね。」
 昌作は冷たいものを真正面からぶっかけられた心地がした。そして、凡てを一瞬間に失った心地がした。黙って唇をかんだ。それを知ってか知らずにか、俊彦は他のことを云い出した。
「腹を立てるのは止しましょう。……僕はね、これも運命の動きと同じ感じですが、初対面の人に対して、自分の友になれる人となれない人とを、はっきり感ずることがよくあるんです。君に対して僕は、失礼ですが、親しい友になれそうな気がするんです。……何処かで一杯やりませんか。」
「ええ。」と昌作は殆んど無意識的に答えた。
 俊彦は帯の間から、小さな銀側時計を引出して眺めた。昌作は何とはなしに、こんな場合に彼が時計を持ってるのが、不自然な気がした。
「もう遅いから駄目ですね。」そして俊彦は暫く考えていた。
「穢い家でも構いませんか、その代り酒は上等ですが。」
「どこでも構いません。」と昌作は答えた。何もかもなるようになれという心になっていた。
 電車通りを暫く行って、それから横町へ曲って、次に路次へ曲り込むと、みよし[#「みよし」に傍点]という小意気な行灯の出てる、繩暖簾の小さな家があった。狭い板の間に、大きい粗末な木の卓子が三つ並んでいて、銚子や皿の物を並べた膳を前に、洋服や和服の数人の客が散在していた。側の畳敷の、長火鉢の前に坐っている、黒繻子の襟の着物にお召の前掛をしめた、四十恰好のお上さんに、俊彦はいきなり言葉をかけた。
「遅くなってから済みませんが、二階の室を貸して貰えませんか。」
「まあ、宮原さん、」とお上さんは云った、「ほんとにお久し振りでしたこと。……ええ、散らかってますけれど、どうぞ。今片付けますから。」
 狭苦しい梯子段を上りきった所に、四畳半の室が一方に開いていた。室の中は散らかってる所か、殆んど何にもなくてがらんとしていた。後からお上さんがやって来て、足の頑丈な餉台や、火鉢や、座布団を並べながら、俊彦と二三人の人の噂を話していった。暫くすると、からすみ、このわた、蟹、湯豆腐、鮪のぶつ切り、など誂えの料理が、錫の銚子を添えて持って来られた。天井と畳が煤けて古ぼけてるわりに、障子の紙だけが真白だった。
「どうです、どうせ裏路なんですけれど、柳容堂の二階とは随分感じが違いますね。」
 そう云う俊彦の顔を、昌作はぼんやり見守った。彼の眼に俊彦は、柳容堂の時とは全く別人のように写った。
「何だか、変な気がしますね。」
 俊彦は黙って杯を取上げた。昌作も黙ってその通りにした。可なり更けたらしい静かな晩だった。膝頭から寒さがぞくぞく伝わってきた。二人共しつこく黙り込んで、杯の数を重ねた。俊彦は突然肩を震わした。
「全く変な気がする晩ですね。」
 余り長い間を置いてだったので、昌作はびっくりして、彼の眼を見入った。その時、古い見覚えがあるような眼付をまた見出して、はっと心を打たれた。俊彦はその眼付を、膝のあたりに落して云った。
「僕は打明けて云ってしまいましょう。実は、君をどうしてくれようかと迷っていたんです。どうしてくれようかって……つまり、君の味方になるか敵になるかということです。初め僕はあすこで、非常に素直な気持で君に逢えて嬉しかったんです。所が、あの嫌な男がやって来た時、ふとその一寸前の気分が――君が窓の所へ立っていった時の変梃な気分です……君にも分るでしょう……あの気分が妙にこじれて戻って来たんです。僕があの男に
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