ま通りすぎてきたようでもあった。或は初めから知りも感じもしないのを、今突然想像したようでもあった。――彼は見えないものを背伸びして強いて見ようとするかのように、じっと自分の記憶の地平線の彼方に眼を定めたが……ふいに、そうした自分自身に気がついて、顔が真赤になった。
「君はあの頃もう十一二歳になってたから、普通なら当然察するわけだが、頗る活発で無頓着で今とはまるで正反対の性質らしかったから、或はぼんやり感じただけで通りすぎたのかも知れないが……。」
 そこまで云いかけた時禎輔は、昌作が真赤になってるのを初めて気付いたらしく、突然言葉を途切らしてじっと彼の顔を見つめた。そして急き込んで云った。
「君は知ってたじゃないか!」
 昌作は宛も自分自身に向って云うかのように、低い声で呟いた。
「昔から感じてたことを、今知ったようです。」
「昔から感じてたことを今知った……。」そう禎輔は彼の言葉を繰返しておいて、俄に皮肉な調子になった。「なるほど、そうかも知れない。君のお母さんは利口だったからね、そして僕も利口だったのさ。そして君はうっかりしてたものだ。」
 昌作はもう堪え難い気持になっていた。彼は哀願するような眼付を、じっと禎輔の顔に注いでいた。それを見て禎輔は、非常な努力をでもするもののように、肩をぐっと引緊めて、それから落着いた調子で云った。
「許してくれ給い。僕はこんな風に云う筈じゃなかったのだが……。僕は君が非常に素直な心持でいることを知っている。そして僕も実は素直に話したいのだ。」そして暫く黙った後に彼はまた続けた。「僕が高等学校の時だ。君の家が、君とお母さんと二人きりで淋しいものだから、僕は君の家に寄宿していたね。あの時、僕は君のお母さんを姉のように募ったし、君のお母さんは僕を弟のように可愛がってくれた。そして僕達は極めてロマンチックな愛に落ちたのだった。僕は小説家でないから、それを詳しく説明出来ないが、君にも大体は分るだろう。そんな風だから、普通そういう関係にありがちな、猥らなことなんかは、少しもなかったのだ。君がはっきり気付かなかったのも、恐らくそのせいだろう。だが君も知ってる通り、僕がこちらの高等学校を出ると、わざわざ京都の大学へ行ってしまったのは、実はそのことを罪悪だと意識したからだった。然し僕は君のお母さんに対しては、今でも清い愛慕の念を持っている、姉と母と恋人とを一緒にしたような気持で……。え、君はなぜ泣くんだい?」
 昌作は禎輔の言葉をよく聞いていなかった。ただ何故ともなく胸が迫って来て、いつしか眼から涙がこぼれ落ちたのだった。彼は禎輔に注意されて初めて我に返ったかのように、そして自分自身を恥じるかのように、葡萄酒の杯の方へ手を差伸ばした。
 禎輔は彼の様子を暫く見守っていたが、やがてふいに立上って室の中を歩きだした。そして卓子のまわりを一巡してきてから、また元の所へ腰掛けて、何か嫌なものでも吐き出すように、口早に話し初めた。
「僕は君に要点だけを一息に云ってしまうことにしよう。判断は君に任せるよ。……君が盛岡であんなことになって、東京に帰ってきてからものらくらしてるのを見て、僕達は影で可なり心配したものなんだ。なぜって、僕達は間接に君の保護者みたいな地位に立ってるのだからね。そして君の心を察して、初めは何とも云わないで放っておいたが、もうかれこれ二年にもなるのに、君がまだぼんやりしてるものだから、達子が真先に気を揉み初めたのだ。そして君自身も、今に生活をよくしてみせると、口でも云い、心でも願っていたろう。それに僕は、君に一番いけないのは仕事がないからだと思ったのだ。何も僕は、君に月々補助してる僅かな金銭なんかを、かれこれ云うのではない。このことは君も分ってくれるね。……そこで、僕は君のために東京で就職口を探してみたが、僕の会社の社長にも相談してみたが、どうも思うような地位がないものだから、何の気もなく……全く何の気もなくなんだ、九州の時枝君のことを思いついて、手紙で聞き合してみると、案外いい返事なんだろう。で僕もつい乗気になって、本式に交渉して、あれだけの有利な条件を得たわけなんだ。時枝君の方では、古い話だが、僕の父の世話になったことがあって、その恩返しって心もあるに違いない。所が、この九州の炭坑ということが……偶然そんなことになったのだが、その偶然がいけなかった。九州の炭坑と聞いて、君が逡巡してるうちに、そして僕から云わすれば、九州へ行くくらい何でもないし、非常に有利な条件ではあるしするから、君にいろいろ説き勧めてるうちに、ふと僕は自分の気持に疑惑を持ち初めた。君を九州へ追い払おうとしてるのじゃないかしらと……。」
 禎輔は葡萄酒の杯を手に取りながら、暫く考えていた。
「僕自身にも何だかはっきり分らないが……
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