す。僕の肉体上の過失は許し得ても、僕の心が他へ奪われることを許し得ない彼女の気持に、僕は理解が持てました。その上僕と沢子とのことは、病後のヒステリックな彼女の精神へ、殆んど焼印のように刻み込まれていたのです。僕は可なり激しい自責の念を覚えました。長年僕の影になって苦労してきた彼女、まだ幼い二人の子供、輝かしい前途を持ち得る沢子、それから自分の地位や身分……そんな下らないことまで考えて、僕はもうじっとしておれなかったのです。前にお話したような妻へ対する不満なんかは、忘れてしまったのです。その時の僕の心は、恐らく最もヒューメンだったに違いありません。
 妻がなお家の中にじっとしてるのを見て、僕はその間に一切の片をつけたいと思いました。沢子とも別れて自分一人の生活を守ってゆこう! そう決心しました。そして沢子と別れるために僕はまた馬鹿な真似をしたのです。せずにはいられなかったのです。
 僕はその翌朝、沢子へ簡単な手紙を速達で出しました。――明後日午後一時に、東京駅でお待ちしてる。半日ゆっくり郊外でも歩きながらお話したい。けれど、あなたの気持によっては、来るとも来ないとも自由にしてほしい。……と云ったような、まるで不良青年でも書きそうな手紙です。
 僕には沢子が必ずやって来るとの直覚がありました。その日は学校をも休んでしまって、十一時半項から東京駅へ行って、待合所の片隅に蹲ったものです。そして彼女へ何と話したものか、何処へ行ったものか、そんなことを考えていました。そのうちに、僕は何だか眠くなってきました。それほど僕の精神は弱りきってぼんやりしていたのです。
 一時よりは二十分ばかり前に沢子はやって来ました。僕は夢から覚めたようにして、彼女の絹の肩掛の藤色の地へ黒い線で薔薇の花の輪廓だけが浮出さしてあるのを、珍らしそうに眺めました。すると、「先生、どこかへ参りましょう、」と彼女の方から促したのです。その眼を見て僕は、彼女が事情を察してることを、何か決心してることを、瞬時に読み取ったのです。
 初め僕は、大森辺かまたはずっと遠く鎌倉や逗子あたりへ行くつもりだったですが、その方面には沢子の知っていそうな文士がいくらも居るらしいのを思い出して、急に方向を変えて電車で吉祥寺まで行きました。そして井ノ頭公園とは反対の方へ、田圃道を当てもなく歩き出したのです。
 不思議なことには、妻に関する言葉は一言も僕達の口へ上らなかったのです。全く忘れはてたかのようでした。それから僕の告白の手紙についても同様でした。僕達は全く無関係な取留めない事柄を、ぽつりぽつり話したものです。どんなことだったか覚えていませんが、ただ、気象学では雲を十種に区別してるけれど、僕にはその二三種きり見分けきれない、ということや、水蒸気が空中で凝結して雨になるまでの経路が、専門家にもまだはっきり分っていないそうだ、というようなことを、僕は彼女へ話したのを覚えています。というのは、北の空から薄い雲が徐々に拡がりかけていたからです。また彼女の方では、壁の中から爺さんと婆さんとが杖ついて出てくるという石川啄木の歌を読んで、童話を書きたくなったということを、僕に話したのを覚えています。
 そういう風に、何ということもなく歩いてるうちに――三月の末のわりに日脚の暖い日でした――僕は次第に或る焦燥――というほどでもないが、何かこう落着かない気分になりました。彼女もしきりに、洋傘《こうもり》を右や左へ持ちかえていましたが、ふいに云い出したのです。
「先生、私もっと遠くへ行ってみたい気がしますの、一度も行ったことのない遠くへ……。」
 それだったのです、僕が何かをしきりに求めながら、それが自分でも分らずにじれていた、その何かは、そのことだったのです。僕は嬉しくて飛び上りました。ほんとに愉快な浮々した……そしてどこかぼんやりした気持になりました。
 僕達は吉祥寺駅へ引返し、可なり長く待たされてから汽車に乗り、立川まで行きました。汽車の中には、気の早い観桜客《はなみきゃく》らしいのが眼につきました。
 立川へ行くと、意外に早く日脚が傾いて、もう夕食の時刻になっていました。季節外れではありましたけれど、川の岸にある小さな家へはいって、有り合せのものでよろしければというその夕食を取ることにしました。そして、ひっそりした二階の隅っこの室に通って、すぐ眼の下の川を眺めました。河原の中を僅かな水がうねり流れてるのを見て、「これが多摩川ですの……小さいんですのね、」と云う沢子の言葉に、僕はすっかり気がのびやかになったものです。そして夢をでも見てるような心地になったのです。現実かしら? 夢かしら? そう考えてるうちに、妻のことも家のことも、東京のことも、遠くへぼやけて消えてゆきました。世界のはてへでも来たという気持で
前へ 次へ
全44ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング