恥かしかったのです。とは云え、その感傷的な心地のうちにこそ、僕の本当の魂があったのかも知れません。
けれどもそのことから、事情は急に険悪になったのです。宛もそうなるのが運命ででもあるように、一歩々々破綻へ押し進んでいったのです。そして僕自身は、余りにうっかりしていました。
僕は妻へ誓いはしたものの、どうしても沢子のことを忘れる――心の外へ追い出すことが出来なかったのです。その上、妻と僕との間は、また以前通りの冷たいものになってしまったのです。あの音楽会の晩は、云わば燃えつきる蝋燭の最後の焔みたいなものでした。そのために却って、僕達の間は一層陰鬱になったのです。そして僕はそれを元へ引戻そうとは努めずに、沢子の面影へばかり心を向けたのです。
僕は妻へ内密《ないしょ》で手紙を書きました。勿論内容は何でもないことばかりを選んだのですが、度数は前より多くなりました。沢子からも年内に一度手紙が来ました。一度は自身で訪ねてきました。そして、神話の原稿も可なり続いたから、正月号から暫く休むという社の意向だと、済まなさそうに僕へ告げました。僕が妙に黙り込んでるので、暫くして帰って行きました。
「神話の原稿も当分いらないそうだから、これで沢子さんとの交渉も絶えるわけだよ。」
そんな白々しいことを、いくらかてれ隠しの気味もあって、僕は妻へ云ったものです。妻は僕の方をじろりと見て、「そうですか、」と冷淡に云っただけでした。
それから正月になって、僕は手紙を書いてる現場を妻から押えられたのです。霙交りの風が物凄く荒れてる夜でした。風の音に聞入りながら沢子のことを考えてると、何とも云えない悲愴な気持になって、こまこまと而も要所を外した文句で手紙を書き初めました。その時妻がふいに僕を襲ったのです。恐らく彼女は虫が知らしたとでもいうのでしょう。いつもは子供を口実に早くから寝てしまって、夜遅く僕の書斎へやって来るなどということは、殆んどなかったものです。所がその晩に限って嵐の音に乗じて夜更けに僕を襲った――そういう風に僕は感じたのです。襖の開く気配に振返ってみると、何かを狙いすますような眼付で、足音も立てずに僕の方へ守って来るじゃありませんか。僕は喫驚して……或る神秘的な恐怖を感じて、いきなり立上ったものです。その様子がまた、彼女には異様に思われたに違いありません。彼女は一瞬のうちに凡てを
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