腹を立てたのも、そのためです。それから僕は、運命の動きなんてものを持出して、君が深く悩んでいる九州行きに結びつけて、一寸悪戯をやってみたのです。その上君をこんな所へ引張ってきて、僕は全く自分でどうかしていました。けれど、あの運命に対する信念と、人に対する最初の印象とは、僕の本当の考えです。云わば自分の信条で君をいじめてみたようなものです。」
 俊彦は深く眉根をしかめて、じっと考え込んだ。昌作は初めて彼の心へ本当に触れた気がした。凡てのことがぼんやり分りかけてきた。俊彦が今でもなお、沢子を愛していること、その愛に自ら悩んでいること、などが分ってきた。
 ややあって、俊彦はふいに顔を挙げた。眼が輝いて、いやに真剣な様子だった。昌作も自ずと襟を正すような心地になった。
「君は沢子さんをどう思います?」
 昌作は息をつめて返辞が出来なかった。俊彦はそれでも平静な調子で云った。
「僕にはあの女のことが、どうもはっきり分りません。何処か少し足りない所があるか、それとも何処か非凡な所があるか、そのどちらかでしょうね。」
「そうですね。」と昌作は漸く答えた。「そして、考え方が、突然意外なものに飛んでゆくので、私は喫驚するようなことがあります。」
「そんな所がありますね。……それから、君は沢子さんを、処女だと思いますか。」
 昌作は大抵のことは予期していたけれど、それはまた余りに意外な言葉だった。それに対する自分の考えをまとめるよりも、相手の気持を測りかねて、黙っていた。
「え、君はどう思います? 本当の所は……。」
「そうですね、私は……。」そして昌作は自分でも不思議なほどの努力で云った。「まだ処女だと思っています。」
 俊彦は深く息をついた。
「君がそう信じてるんでしたら、僕達の物語をお話しましょう。なぜなら、沢子さんを処女だと信じてる人にしか、この話は理解出来ないような気がするんですから。……僕はまだこんなことを誰にも話したことはありませんし、今後も恐らくないでしょうが、君にだけは、妙に話したくなったんです。ただ、誓って、君の胸の中だけにしまっといて下さいよ。」
 昌作はそれを誓った。俊彦は話しだした。そして初めから、二人共不思議に心が沈んできて、暗い憂鬱な気分に閉されたのだった。勿論俊彦の話は、その内容が理知的なにも拘らず、非常に早口になったり、一語々々言葉を探すようにゆるく
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