の鮑をね、いきなり殻をはいで、岩のように堅くなった生身《いきみ》の肉を、大根研子《だいこおろし》でおろして、とろろ[#「とろろ」に傍点]にしたものだそうだ。……残酷じゃないか、君、生身を大根研子でおろされる時の感じは、どんなだろうね。それから、栄螺《さざえ》の壺焼だって……。」
 そうなると、もう一種の述懐ではなくて、何か他意ありそうな攻撃的な語調だった。昌作は返辞に迷って、相手の顔をぼんやり見守った。顎骨の弱った四角な顔、わりに小さな眼と低い頑丈な鼻、短く刈り込んだ口髯、顔全体が何処となく間のびしていながら、その間のびのしたなかに、強い意力と冷たい皮肉とを湛えていた。眉の外れに小さな黒子《ほくろ》があった。昌作の視線は次第にその黒子に集ってきた。その時、殆ど敵意に近い感情が禎輔の顔に漂った。何かどしりとした言葉が落ちかかって来そうなのを、昌作は感じた。
 けれど、丁度その時、奥の室から達子が出て来た。
「いらっしゃい。」
 下唇の心持ち厚い受口から出る、多少切口上めいた語尾のはっきりした言葉で、彼女は昌作を迎えておいて、其処に坐った。そのために室の中の空気が一変した。禎輔の顔は俄に無関心な表情になった。宛も、覗き出しかけた彼の心が再び奥深く引込んだかのようだった。妻の前に於ける彼のそういう態度の変化が、一寸昌作を驚かした。元来禎輔は、深い問題を論じ合ってる熱心な際にも、妻の達子が其処に出ると俄にくつろいだ態度を取る癖があった。妻をいたわるのか或は妻の手前を繕ろうのか、または、妻を軽蔑してか或は恐れてか、何れともそれは分らないが、兎に角俄に、余裕のある何喰わぬ態度をするのだった。その無意識的な癖を昌作は嫌だとは思わなかった。然しその晩の禎輔の態度は、単なるそういう癖ばかりではないらしかった。何かしら意識的な努力の跡が仄見えた。昌作は一寸心を打たれざるを得なかった。それと共に、今迄禎輔と対座中、自分が殆んど一言も口を利かなかったということが、ふいに頭に浮んだ。禎輔ばかり口を利いて昌作が無言でいるというようなことは、昌作が少し使いすぎて余分な金を貰いに来るような時にでも――(そんな時禎輔は別に小言も云わずに金を出してやった)――今迄に余りないことだった。昌作は変に落着かない心地になった。然し達子は彼に長く猶予を与えなかった。いつもの率直さで尋ねかけた。
「佐伯さん、どう
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