」
「令嬢じゃないんです。」
「でも若い女なんだろう?」
「ええ。」
禎輔はまたそれきり黙り込んでしまった。昌作は不安な予想に駆られて、苛ら苛らしてきた。
「急なお話って、どんなことですか。」
「君は、僕がなぜ九州なんかへ君を追いやるのかと疑ったね。」
禎輔は急に額を曇らせながら、ゆっくりした調子で云った。昌作は喫驚した。そして急いで弁解しようとした。その言葉を禎輔は遮った。
「君が疑うのは道理《もっとも》だよ。そして、実は、君がその疑いを達子へ洩らしたために、僕は可なり安心したのだ。うち明けて云えば、僕は達子に暗示を与えて、君の心を探ってみたのさ。すると、達子がうまくその使命を果したというわけだよ。」
昌作にはその謎のような言葉の意味が更に分らなかった。禎輔はまた云った。
「君が達子へ向って、片山さんはなぜ私を九州なんかへ追い払おうとなさるんでしょう、と云ったことと、それから、君に若い恋人《ラヴァー》があるということとで、僕は自分が馬鹿げたことに悩んでるのを知ったのだ。そして、いろいろ考えてみて、一層何もかも君にうち明けて、さっぱりしたいという気になったのだ。……これだけ云えば、君にも大凡分るだろう?」
然し昌作には更に分らなかった。彼は何か意外なことが落ちかかってくるのを感じて、息をつめて待ち受けた。
「じゃあ、君は知らなかったのか」と禎輔は低い鋭い声で云った。「そうでなけりゃ、忘れてしまったのだ。……いや知ってた筈だ。」
「何をです?」
「僕と君のお母さんのことを。」
「あなたと母のこと?」
禎輔は彼の眼の中をじっと見入った。
「僕と君のお母さんとの関係さ。」
「関係って……。」
その時昌作は、今迄嘗て感じたことのない一種妙な気持を覚えたのである。頭の中にぽーっと光がさして、すぐに消えた。そのために、もやもやとした遠い昔の記憶の中に見覚えのあるようなまたないような一つの事柄が、眼を据えても殆んど見分けられないくらいの仄かさで浮き出してきて、それが一寸した心の持ちようで、現われたり消えたりした。夢の中でみて今迄忘れていたことが、突然ぼんやりと気にかかってくる、そういった心地だった。勿論、一つの場面も一つの象《すがた》も彼の記憶に残ってはしなかった。けれど、何だかそれをよく知っていたようでもあった。知っていながら忘れていたようでもあった。漠然と感じたま
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