みた。今から行けば丁度夕飯時分で、夫妻といつものように会食するということが一寸気にかかったけれど、構うものかとまた思い返した。
 禎輔は不在で達子が一人だった。昌作は何故ともなく安堵の思いをした。達子は彼の姿を見て、待ちきれないでいたという様子を示した。
「佐伯さん、一体どうしたの? あんなに電話をかけたのに……。昨日も今日も五六回の上もかけたんですよ。するといつも居ない、居ないって、まるで鉄砲玉みたいに、何処へあなたが行ったか分らないんでしょう。私ほんとに気を揉んだのよ。変に自棄《やけ》にでもなって、何処かで酔いつぶれでもしてるのじゃないかと、そりゃあ心配したんですよ。……でも、宿酔のようでもないようね。一体どうしたんです? 電話をかけたらすぐに来て下さいって、あんなに頼んどいたのに……。」
 黒目の小さな輝いた眼がなおちらちら光って、受口《うけぐち》の下唇をなお一層つき出してるその顔を、昌作は不思議そうに見守った。
「あなたも御存じじゃありませんか、私は此頃はわりに謹直になって、酒なんか余り飲みはしません。ただ、一寸用事が出来たものですから、その方に駈けずり廻っていたんです。」
「でも昨日はあんなに雨が降ったのに、その中を……?」
「雨くらい平気ですよ。」
「嘘仰言い、懶惰《ものぐさ》なあなたが!……それじゃ、やはりあのことで?」
 昌作は自分の心が憂鬱になってくるのを覚えた。達子が沢子のことを云ってるのだとは分ったが、それを今話したくなかった。そして言葉を外らした。
「何か僕に急な御用でも出来たんですか。」
 達子は眼を見張った。
「急な用ですって?……あなたはもう忘れたの?……四五日うちに返事をするって約束したじゃありませんか。あれから今日で幾日になると思って? 丁度五日目ですよ。まあ、馬鹿々々しい! 当のあなたが平気でいるのに、私達だけで心配して……。あなたくらい張合いのない人はないわ。片山はね、あなたがあんまり心をきめかねてるのを見て、何か岐度他に心配があるに違いないと云うんでしょう。私あなたの言葉もあったけれど、実はこうらしいって、あなたが話したあのことを打明けたんですよ。すると片山は長く考えていましたっけ。そして、そういうことなら、その方はお前が引受けて、まとまるものならまとめてやるがいい、何も九州へ行くことが是非必要というのじゃないから、他に東京で
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