うかも知れないが、こういう風な対話だと私は覚えている。ところで、おかしなことには、AもBも、自分は馬鹿ではないと云いながら、そして実際そうかも知れないが、それでもなお、吾々は馬鹿だということは否定されずに残る。この否定されずに残るものが、最も重要であって、この場合にはそれが最初に云われただけのことである。多くの場合、それは最初にも最後にも云われない。オブローモフの場合には、それが云われなかった。云われなかったけれども、云われる以上に主張された。
文学に於て、いつも吾々が注目し考察するのは、云われる云われないに拘らず、その最も重要な一事である。前に述べた男の場合のただ一つの「明日」である。「明日」は僕にとって凡て架空だという言葉の裏の、本当に重大な一つの「明日」である。その「明日」を、どうして、直接に表現出来ないのであろうか。直接に表現出来ない所以を、彼は、実生活は文学とは異るという言葉で云ってのけた。実生活では実際、それは直接に表現し難い。何故かを説明することは今の私には興味がもてない。然し文学に於ても、何故直接に表現出来にくいのであろうか。吾々が注目し考察するのはそれであり、而も直接にそれを表現したいからこそ、実生活は文学とは異ると云い得るのである。それが直接に表現出来なければ、文学もやはり実生活同様まだるっこしいものに過ぎなくなる。
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凡そ文学者は、普通の場合に於ても、「明日」を待っているであろうか。確実に予想され得る現実的な「明日」を待っているであろうか。
前の「馬鹿云々」の話ではないが、一般に、吾々文学者には明日がない、ということが云い得られる。その時もし一人の文学者が、説者に尋ねるとする、どうして君には明日がないんだと。説者は恐らく答えるだろう、なあに、僕には明日はあるさ。すると、問者もこう云うだろう、僕にだって、君以上に明日がないということはないと。然しながら、両者の個人的な意見は、そのまま真実であるとしても、この場合は何等の力も持たず、ただ、吾々文学者には明日がないということだけが、生きて残る。
文学者とはそういうものなのである。というより寧ろ、文学とはそういうものなのである。そしてこの場合の「明日」の否定は、前の或る男の話と同様、明日のあらゆる事柄を呑みつくすほどの、或る重大な不安定な「明日」の存在を意味する。そうした「明日」を、文学者は注視し思考しているし、それが文学の中核となるのである。
卑俗の排除、偏見慣習の否定、日常性との闘争、不安懐疑の奥底の探求、そうした事柄はみな、右の事情から来る。
文学者は、或る何等かの壁にぶつかって、虚無のうちに身を横たえなければならないことがある。然しながらこの虚無は、全然の虚無ではない。それは、重大な明日のために、普通の明日を否定することに外ならない。もし「明日」が全然存在しないとしたならば、どうなるか。自殺への途しかないであろう。それは「悪霊」のスタヴローギンの最後の場合である。
虚無の中から創造されたもの、云い換えれば、否定の底に肯定される異常な「明日」を直接に表現されたものを、私は文学に要求したい。尤も、この直接の表現とは、創作技法上の形式を指すのではない。技法上の形式はどうでもよろしい。何等かの肉体的なつながりがあればよいのである。それはただ「何等かの」で差支えない。肉体的なつながりそのものが、文学に於ては直接の表現になる。
ところで、一歩退いて考えれば、というのはつまり、余りにつきつめた物の云い方をしたので、一息ついて気を弛めてみれば、吾々は普通の場合、異常な「明日」を却って否定して、尋常な「明日」を肯定することが、屡々である。絶壁の上に立っていると、そこから墜落はしないことを知っていながら、墜落しはすまいかという疑懼のために後に引戻されることがある。これは日常性の復讐だ。この復讐は、強力であると共に誘惑的でさえある。日常性の復讐に敢然と対抗し得るだけの覚悟が必要であろう。
最初に述べた或る男は、其後、私に次のようなことを云った。――あの当時僕は、所謂背水の陣を布いて生きていた。この背水の陣というものは、まかり間違えば、凡てを投り出して自殺するというような、そんななまやさしいものではない。異常な「明日」を責任を以て肯定するという、やさしいようで実は非常に困難な覚悟の肚をすえていたのだ。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
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