にいたことが、後で分った。
 ところで、そうした危険な場合、大抵は、それは間接的な表現を取る。重大な「明日」の存在が、普通の「明日」の否定を以て表現される。なぜだろう。世間体の故か。一種の体面の故か。或は、直接の表現に堪え得ないような貴重な脆いものがその中に含まっている故か。後になって、そのことを彼に話すと、彼は異様な微笑を浮べて答えた、実生活は文学とは異ると。
 それならば、文学ではどうだというのだろう。実際、文学では、普通の「明日」のないような人物や場合が、屡々探求される。それが文学の最も感動的な部分とさえも云える。そしてそれは、どんな風に表現されているだろうか。
      *
 文学に於ても、特殊なものは、間接な表現によって強く表明されることが多い。
 ゴンチャロフの「オブローモフ」の中に、面白い一節がある。オブローモフは移転を家主から迫られているが、考えただけでも、移転のごたごたに堪えることが出来ない。従僕のザハールはそれに対して、ふと、他の人達もみんな引越しをする、上手に引越しをする……と云い出す。その時、オブローモフは椅子から飛び上って怒鳴りつける。「他の人達は上手だって! そうか、俺がお前にとって、他の人達と同じだということは、今ようやく分った。」
 之は最も効果的な表現である。他の人達と同視されることを憤慨するのは、如何なる直接的な自己主張よりも、一層強い自己主張になる。自分はこうだああだと如何に説き立てても、他の人達と同視されるのを憤慨することには遠く及ばない。他の人達と同様だということを否定するのが、最も強い自己主張になる。
 恋愛などの場合は、こうした手法が屡々用いられる。一人の女を愛している時、その女を如何に深く愛するかと説くよりも、他のあらゆる女に一顧も与えないことを説く方が、より強くその愛が表現される。さまざまな美しい女性にとり巻かれても、それらに一瞥も与えないことは、つまりそれらを凡て無視することは、ただ一人の女性を重視することになる。
 こういうのは、比較の問題ではない。絶対的な問題である。
 ドストエフスキーの「悪霊」の中にあったことだと記憶しているが、面白い対話がある。
 A――「吾々は馬鹿だな。」
 B――「どうして君は馬鹿なんだ。」
 A――「僕は馬鹿じゃないさ。」
 B――「僕だって、君よりは馬鹿じゃないよ。」
 言葉は違
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