か、恐らく転がり落ちる間際にだったろうが、それを一生懸命に握りしめてるのである。手を開かせてそれを捨てさせた時、彼は急にわっと激しく泣きだした。――それがあまりおかしかったので、石ころという綽名がついた。が当人は、石ころと云われると、ひどく怒って口も利かなかった。
「それがどうしたんだい。」とチビは尋ねた。
「それきりさ。」
「なあんだ、面白くもない。」
「でもねえ、夢のなかなんかで、高いところから落ちることがあるだろう。宙をすーっと落ちていく。とても恐《こわ》いんだ。あんな時、石ころでも棒ぎれでもいいから、手にしっかり握りしめていたら、そんなに恐くないかも知れないよ。」
「どうかなあ。」
「君には分らないよ。」
「僕は夢なんかみないんだ。」
「だから、よく分らないんだ。」
チビは耳をかいた。正夫はやがて云った。
「本当は、石ころなんか握りしめるのは、極りわるいことさ。僕だったら、両手をひろげたまま落ちていくよ。」
「どっちだって同じさ。」
「ちがうよ。君に分らないだけだ。お父さんのことだって、君には分ってやしない。お父さんは、力がぬけてたけれど、それでも、海に飛びこむだけの力はあったんだ。両手をひろげたまま飛びこんだと思うよ。」
「そんなこと、豪かあないよ。」
「豪くはないさ。」
「じゃあ何だい。」
正夫は返事をしなかった。チビも口を噤んだ。二人とも妙に淋しいものにぶっつかったのである。
南さんの歩き方が少し怪しいのは、単に酔ってる時ばかりではなかった。ふだんでもどうかすると、膝の関節に弾力がなく、軽微な中風患者みたいに、ぎくしゃくした歩きようをした。それから、例えば茶碗とか箸とかを取る時、少し見当をちがえて、手がわきにそれることもあった。土瓶やコップを引っくり返すことも多かった。身体の平衡を取り失ってるらしかった。
然し南さん自身は、何か沈欝に考えこんだ様子で、そして泰然と落着きはらっていた。三島さんの伯父さんとかいう人が来た時なんか、南さんは愛想よくそれを二階に招じたのだった。――三島さんという若い女の人は、正夫も知っていた。いつか家に来た時、大理石と青い玻璃とで出来てる大きなインクスタンドを貰ったことがあった。背の低い中肉の女で、紫色と白線とが目立つ着物をきていた。眉がきれいに細長く弧をなしているのと、唇が薄くくっきりと際立ってるのとが、正夫の頭に
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