いな名前ですこと。」
笑いかけておいて、房代夫人は急に真面目になった。
「やまぶきだかなんだか存じませんが、わたくしが、その割烹旅館とやらへ、お伴しようではございませんか。それとも、わたくしのような肥っちょのお婆さんでは、いけませんかしら。」
志村は首をすくめた。
「分りましたよ。そう叱らないで下さい。」
房代夫人は片手を伸ばして、彼の手首を押えた。
「志村さん、すこし御冗談が過ぎますわよ。あなたの方は、冗談ですましていらしても、相手の方はそうは参りませんからね。みんな憤慨しておりますよ。中には、心の底のどこかで、ちょっと擽られたぐらいな気持ちになる者も、いないとは限りませんでしょうけれど、だいたいは、大袈裟に申せば、名誉を傷つけられたことになりますでしょう。そしてあなたの方は、不徳義な破廉恥なひとということになりますでしょう。その両方が重って、たいへん面倒なことが持ち上るかも知れません。ねえ、そうではございませんか。」
「分りましたよ。もうその話はやめましょう。いったい、あなたのお話は……。」
「え、わたくしの話が、どうなんですの。」
「あまりもっともすぎて、返答に困るというものです。」
「それでは、もっともでないことを申しましょうか。」
房代夫人はその小さな眼で笑った。
「わたくしが、みんなの犠牲になって、あなたのお伴をしようではございませんか。人中で、おおっぴらに、お約束致しましょう。フグの茶漬けとかを食べに、やまぶきとかいう割烹旅館へ、あなたと二人で、幾日の何時頃参りましょうと、公然とお約束致しましょう。そうしたら、ほんとに連れて行って下さいますか。」
「仕方ありません。是非そうしてくれと、あなたが仰言るんでしたら……。」
房代夫人はまた彼の手首を押えた。
「笑っていらっしゃいますね。実は、真面目に聞いて頂きたいことがございますのよ。申し上げようかどうしようかと、迷っていましたけれど、今日はよい機会ですから、思い切って申しましょう。ただ黙って、なんの弁解もせずに、聞いて下さいよ。」
「御意のままにします。俎上の鯉となりましょう。」
志村はそれまでに、三杯のカクテルを飲み干してしまった。房代夫人も唇の端っこでカクテルをなめた。それから、通りかかった女中に、また、カクテルを二杯たのんだ。女中の外に、通りかかる客人もあり、房代夫人に挨拶していった。二人は密談してるかのように見えた。
「実は、あなたの奥様として、申し分のないかたがございますのよ。」
地位もあり財産もある家柄のひとで、戦争未亡人だが子供はなく、実家に復籍していて、教養といい人柄といい、志村夫人としてうってつけだそうである。
志村はにやにや笑った。
「それは光栄ですな。酒の肴にするには、少し勿体ないお話じゃありませんか。」
カクテルをなめる志村を、房代夫人は睨むように眺めた。
「そういう御返事だろうと思っておりましたわ、近頃のあなたの御様子では。」
「様子って、どこかへんなんですか。」
志村はおどけた真似で、顔を撫でてみせた。
「志村さん、すこしお慎みなさらなければいけませんよ。」
急に、房代夫人の調子が変り、そして声が低くなった。
「あなたのお宅には、ずいぶん、女のお客さまが多いそうでございますね。そしてあなたは、朝からお酒を召上ってるそうではございませんか。」
「そうですなあ、考えてみればそんなこともありますが……。」
「まあ、黙ってお聞き下さい、洗いざらい言ってあげますから。ありのままを申すんですのよ。」
志村は肚をきめて、口を噤んだ。両腕を組んで卓によりかかり、靴下の先が焦げるほど火鉢の縁に足をかざした。
「お宅のあの年とった女中さん、あのひとがなんと言っておりますか、御存じですか。うちはいっそ待合にでもしてしまった方が似合っている、そう申したんですよ。」
それは恐らく、あの女中の鶴やの言葉ではなく、外の誰かが言ったことだろう。然し、誰が言ったにせよ、半面の真実ではあった。
「ひとにはやはり、それぞれ贔屓がありますのね。お宅の女中さんたち、旦那さまはいったいどなたが一番お好きなのかしらと、噂をしまして、木村さんがお好きらしいとか、土屋さんがお好きらしいとか、中尾さんがお好きらしいとか、いろいろ意見がわかれましたそうですのよ。」
女中たちの陰口とは、恐らく作り話だったろう。然し、木村さんにしろ、土屋さんにしろ、中尾さんにしろ、志村と何等かの関係がある女性たることは事実だった。普通の交際としては少し頻繁すぎるくらい、彼女たちは志村を訪れて来、志村の酒の相手をすることもあれば、時には泊ってゆくこともあった。表面では、彼女たちは志村の和歌の弟子ということになっていたが、実際に和歌を作ってるかどうかは疑問だったのである。
「土屋さんてかたは、あなたの秘蔵弟子らしゅうございますわね。しばらく伺わないでいると、風邪でもひいてるのではありませんかと、先生からお便りがあった、そう仰言ってるんですよ。風邪ですって、面白い言い方ではございませんか。それからまた、正月になったら、どこか温泉にでも行きたいと、先生からお誘いを受けた、そうも仰言ってるんですよ。そしてそのあとが面白いじゃございませんか。わたくし、先生とはなんでもないんですけれど、こんなことを申すと、なにか訳があるように聞えますでしょうか……ふふふ、とお笑いなさるんですよ。なにか訳があるように聞えますでしょうかと、ひとにお聞きなさるところが、素敵でございましょう。」
ちょっと面白く出来すぎてる話だった。志村は他の用事で彼女に葉書を書いたことはあった。温泉の話をしたこともあった。然し、房代夫人の話は、面白く出来てる半面、ただ面白いと聞き捨てるわけにゆかないものを含んでいた。
「あ、おかしなことを思い出しましたわ。あなたはしばらく、野田さんの鎌倉の別荘に行っていらしたことがおありでしょう。あすこに、若いきれいな女中がおりましたわね。その女中さんが、あとで、先生はやさしいよいおかただとほめておりましたそうですよ。そして、よいおかただけれど……と言葉尻を濁すので、よく聞いてみますと、たった一ついやなことがある、と申したそうですの。先生がいつまでもお酒をあがっていらっしゃるので、部屋に引っこんでいると、いきなり部屋の襖をあけて、もう寝たのかいと中をお覗きなさることがあるし、それから、酔っ払って肩をお揉ませなさることがある。それが、とてもいやだった。そう申したそうですよ。」
志村は飛び上りかけて、しいて腰を落着けた。カクテルを一息に飲み干し、煙草に火をつけた。
「それから、まだありますか。なんでも仰言って構いませんよ。」
房代夫人も煙草に火をつけた。
「ですから、志村さん、芸者遊びなんかはよろしいんですけれど、素人の女には、お気をつけあそばせ。」
あとの方をゆっくりと、勿体ぶった調子で彼女は言った。
苛ら立ってくる気持ちを抑えてるうちに、志村はふと、別な疑念を懐いた。
「いったい、どうしてあなたは、そういろいろなことを御存じなんですか。」
「それでは、いまお話したことは、みな本当なんでございますね。」
「それは、僕の方からお尋ねしたいんです。」
「わたくしの聞きましたところでは本当らしゅうございますよ。」
「誰からお聞きなすったんですか。」
「誰からともなく……まあ、世の中から、とでも申したら宜しいでしょうか。」
「それは、あなたたちだけの世の中でしょう。あなたがたの仲間のことでしょう。僕は断っておきますが、普通の人間、庶民の中の一人として、暮しているんです。」
「ですから、あまり勝手なことをなさらないで、普通のひとらしく、御結婚でもなすったらいかがでしょう。」
志村は眉をひそめて黙りこんだ。
房代夫人は彼の手首を押えた。
「ねえ、志村さん、お気に障ったか知れませんが、ほんとはあなたのことを心配してるんですのよ。御結婚のこともゆっくり考えておいて下さいね。ほんとにお似合のかたがございますのよ。あ、そうしましょう、こんど、やまぶきでしたか、やまぶきへお伴しますまでに、お気持ちをきめておいて下さいましね。」
「やまぶき……ほんとにいらっしゃるんですか。」
「ええ、いつでも、日をきめて下さいますれば。」
房代夫人は立ち上った。何の話もなかったかのように、小さな眼に笑みを浮べて会釈し、広間の方へ去って行った。肥満した体の腰が太く、腰から下の姿がずんどうだった。
志村はやたらに煙草を吹かした。泥酔後の深夜、ふと眼覚めて、気恥しいことをぽつりと思い出す、あの気持ちに似ていて、なにか叫びだしたかった。そして腹が立った。
河口と吉岡が通りかかって、志村の前に足を止めた。二人とも少し酔っていた。
「今井夫人につかまってたようだね。」
「なにか意見されたんだろう。」
「あのひと、ちょっとうるさいからね。」
「なぜ逃げ出さなかったんだい。」
志村は返事もせず、そっぽを向いていた。それから黙って立ち上り、二人の方は見向きもせず、広間へやって行った。
今井房代夫人は、数人の男女客の上座について、人々の話に頷いてみせていた。志村はその側へ行き、あたりの人に聞えるぐらいな声で言った。
「来週の月曜日にしましょう。」
房代夫人は平然と答えた。
「やまぶきのことでしょう。迎いに来て下さいますわね。」
「六時頃……。」
「お待ちしております。」
志村は人々の視線を浴びながら、室を出て行った。
志村は房代夫人との約束をすっぽかすつもりだった。フグの茶漬けなどといううまくもないものを食う物好きもないものだし、やまぶきという割烹旅館のことも固よりでたらめである。房代夫人もそれぐらいのことはだいたい感づいてる筈だった。
ただ、志村はなんとなく腹の虫が納まらなかった。房代夫人の打明け話は、彼を侮辱するような毒素を多く含んでいた。彼女自身は恐らくそのことを意識していなかったろうが、それとこれとは別問題だ。
一般女性の浅間しさというものを、志村は漠然と感じてはいたが、直接それに頭をぶっつけた気がした。あの数々の話そのものが、女性の浅間しさを暴露したものであり、そんな話が伝えられてること自体も、同然であった。外にもどんな話が流布されてるか分らなかった。そしてその浅間しさが、志村を侮辱してくるのである。
男女間の性的行為に魅力を感じなくなったのは、無軌道な行動のせいだったろうか。あるいは、魅力を感じなくなったために、無軌道な行動をするようになったのだろうか。それが志村自身にも分らなかった。恐らく両者は相互関係にあったのだろう。それにしても、一般に女性があれほど浅間しいものでなかったなら、もっと立派な品性のものであったなら、と志村は自ら言った、俺はこんな侮辱を受けないですんだろう。
そうは思っても、志村はやはり腹の虫が納まらなかった。むしゃくしゃして、朝酒を飲み、晩酒を飲んだ。酒の習慣というものはおかしなもので、朝に飲むと、晩にも飲みたくなり、晩に飲むと、朝にも飲みたくなる。きりがないのだ。
月曜の朝、志村が自宅で酒を飲んでいると、房代夫人から電話があった。志村は眉をひそめて、電話口に出た。――房代夫人は約束を忘れていなかったのである。ただ、少しく模様変えをしたいから、やまぶきには室を取らないでおいてほしいとのこと、そして必ず彼女の家に来るようにとのこと、六時には待ってるから忘れないようにとのこと、それだけ繰り返し念を押して、「御機嫌よろしゅう。」
志村は舌打ちして、もう成り行きに任せることにきめた。
午後、彼は会社に顔を出し、夕刻、行きつけの小料理屋で酒を飲み、飲んでるうちに時間を過ごして、今井家へ行ったのは七時頃だった。
女中は志村の顔を見るとすぐ、十畳の日本座敷の方へ案内した。懇意な顔が揃っていた。河口と吉岡、有松夫人と久木未亡人、それに房代夫人、五人で食卓をかこんでいた。フグ料理の大皿が並び、酒の銚子が何本も出ていた。
房代夫人はくだけた調子で志村を迎えた。自宅ではいつもそうなのである
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