あたろうにもあたりようはありません。フグは何をあがりましたか。」
「刺身と、ちり……でしたかしら。」
「なるほど、どこでもそうですね。刺身にちり。きまりきってます。ところが、僕の知ってる家では、特別にうまいものを食べさしてくれますよ。フグ茶ですがね。」
「え、フグ茶……ですって。」
「フグの茶漬けですよ。鯛の茶漬け、鯛茶、御存じでしょう。あの鯛を、フグでゆくんです。これは天下の美味で、一度食べたら病みつきになりますよ。」
「わたくし、初めて聞きましたわ。」
「どこででも食べられるというわけにはいきません。僕の知ってる家だけです。たらふく飲んで、たらふく食って……便利なことには、そこは割烹旅館になってるものですから、僕はたいてい泊ってくるんです。お宜しかったら、こんど御案内しましょう。もっとも、お泊りになろうと、お帰りになろうと、それはあなたの御自由です。」
 前屈みに相手の方へ顔を寄せて、志村は囁くように小声で話すのだが、あたりに人がいることだし、二人だけの内緒話というわけにはゆかなかった。それになお、志村は内緒話のつもりでもないらしく、小声とはいえ、隣席の者の耳にはいる程度の調子を保っていた。
 相手の見境はなかった。人妻であろうと、未亡人であろうと、独身者であろうと、構わなかった。ただ、こういう席に若い令嬢は殆んどいなかった。
 連れ込み専門の家ではないとしても、とにかく割烹旅館、志村がよく泊ってくるという家に、婦人を誘ってフグ茶を食いに行くとは、いささか穏当ではなかった。
 反応は種々様々だった。
 顔を真紅にして俯向いてしまう女もあった。
 怒ったようにそっぽを向く女もあった。
 ほほほと笑殺する女もあった。
「どうぞ、お伴させて頂きますわ。」と揶揄するように言う女もあった。
 それだけで、志村は顔を挙げて反り身になり、素知らぬ風に煙草を吹かした。なんだか憂欝そうでもあった。心持ち眉根を寄せてることもあった。
 実際に、何日の何時頃と、彼が誰かを誘ったことは、勿論機微に属する事柄ではあるが、一度もなかったらしい。
 彼の「内緒話」を側で漏れ聞いた武原は、或る時、彼と二人きりで街路を歩いていた折、ふと尋ねてみた。
「フグの茶漬けとかいうものを、君は言ってたことがあるが、ほんとうにあるのかい。」
「あり得るね。」と志村は答えた。
「え、あり得る……。」
「鯛茶が
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