僕は思わず口走って、それから詩の原稿を引裂いてしまった。
「あら。」
その時のお前の、喫驚した顔ったらなかったよ。だが瞬間に、お前の黒い睫毛は、眼の色に現われた感情を隠してしまった。
西洋の誰かが、こんな意味のことを云っている。――昔の野蛮人は、占領した都市に、処女性のない潔白な女を残していったが、吾が文明は、潔白さのない処女を拵え出した。
なぜこんな文句をここに引出してきたか、お前にはこじつけとしか思えないだろうが、まあ黙って先を聞いてくれよ。
その晩……全く静かな安らかな晩だったね。夕食後、母とお前と僕と三人で茶の間に集って、電燈の光のまわりに黙って坐ってたじゃないか。
「いやに静かな晩だなあ。」
余りしんみりしてきたので、僕は少し気がさして何気なく云ってみた。
すると、意外にも、母はほっと溜息をついた。が言葉はやさしかった。
「ええ、お前が真面目でさえいてくれれば、いつもこうなんですがねえ……。これからは少し落付いてくれなければ困りますよ。」
「落付きますとも、今夜からこの通りに……。」
その時お前は傍で微笑していたね。その幸福そうな微笑を見て、僕は……全く気まぐれなんだが……ユーゴーの詩を読んで聞かしてやった。ランプの光のまわりに一家団楽しているところや、妻や子が主人の帰りを待ちわびてるところや、楽しい夕食の光景や、そういうつつましやかな家庭の幸福をね。それから最後に、あのコペーの詩さ。主人は朝から晩まで板をけずってる、日曜日に金使いもしない、二人の子供は鉋屑の中で遊んでる、お上さんは家の入口で、貯金の胸算用をしながら編物をしてる、一家安隠で商売繁昌だ。そういう風に僕はごまかして読んでいったが、実は、あれは柩造りの詩なんだ。次の疫病流行を夢想して、収入を空想するところまであるんだ。皮肉じゃないか。
僕も皮肉だった。心とうらはらな芝居をうっていた。心では、兄の家庭……と云うより寧ろ、兄の家庭で代表されるそうした家庭のことを考えていた。主人は朝から夕方まで勤めに出て、こつこつ機械的に働いてくる。細君は赤ん坊を守りしながら、家の中に閉じ籠ってる。そして粗末な夕食の膳、疲れきった無言の宵、それから薄ら寒い睡眠。それが文字通りに十年一日の如く連続する。一生の間。そして最後に、僅かな貯金と死。
勿論そんなことは、一口には云えない。そのつつましやかな
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