とめました。
「この帽子はすてきだな、格好といい色つやといい、どうも……珍らしいよい帽子だ。これにしよう。いくらだね」
 番頭《ばんとう》はその帽子を手に取って、小首《こくび》を傾げて眺めました。自分の店にあるのだが、どうも見馴《みな》れないすてきな帽子なんです。でも、高く買ってさえもらえば損《そん》はないわけですから、とび離れた高い値で売りつけました。紳士はその帽子がよほど気に入ったとみえて、たくさんのお金を払い、古い帽子は打ち捨ててしまって、新しい帽子を頭にかぶって外に出ました。
 悪魔はおかしさをこらえて澄《す》ましてきって[#「澄《す》ましてきって」はママ]いましたが、今こうして、ハイカラな洋服の紳士の頭にのっかって、賑《にざ》やかな大通りを通ってるうちに、非常に愉快な得意な気持ちになって、ぐっと反《そ》り返りながら、逃げ出すのも忘れてしまいました。
 やがて紳士は、ある立派な洋食屋《ようしょくや》へはいって昼の食事を始めました。悪魔の帽子がよほど気に入ったとみえて 入口の[#「とみえて 入口の」はママ]釘《くぎ》にもかけずに、ちゃんと食卓の上にのせておきました。
 次に見事な料理の皿が運ばれました。食卓の上に帽子となってひかえてる悪魔の鼻にも、うまそうな匂《にお》いがぷーんと伝わってきました。すると悪魔は急に空腹を覚えました。考えてみると、昨日の晩から何にも食べていなかったのです。
「うまそうな料理だな。下水の中に流れてくるものなんかとは、比べものにならない。ああいい匂いがしてる。それに俺の腹はぺこぺこだ……構《かま》うもんか、少し盗み食いをやれ」
 そして悪魔《あくま》は、紳士がビールのコップを手にとって、ぐーっと飲んでる隙《すき》に、皿の中の料理をぺろりと頬張《ほおば》ってしまいました。それに味をしめて、次の皿のもその次の皿のも、大きい口でぺろりと頬張ってしまいました。
 紳士はビールを一口飲んで、さて料理を食べようとすると、皿の中にはもう何にもありません。
「おかしいな。どうも……」
 次の皿もそうなものですから、しまいに紳士は両腕をくんで考えこみました。
「今日は変な日だな。夢でもみてるのかしら」
 こつんと額《ひたい》を一つ叩いて、それから急いで勘定《かんじょう》をして外に飛び出しました。大事な帽子《ぼうし》を頭にのせることは忘れませんでした。
 空はやはりからりと晴れて、日が照っていました。けれど、いつしか風が出て、大通りをさっさっと吹き過ぎていました。それでも悪魔は、うまい料理に腹がいっぱいになって、紳士の頭にのっかったまま、ついうつらうつらと眠り始めました。

      三

 しばらくたって眼を開くと、そこもやはり賑《にぎ》やかな大通りで、ハイカラ洋服の紳士はステッキを打ち振りながら変なしかめ顔をして歩いていました。きっと腹が空いてるんだな、と思うと悪魔は、急におかしくなって、ははははと笑い出しました。がその声に自分でもびっくりして、首を縮こめるとたんに、何だか寒くなって、うつらうつらしてる間に風邪《かぜ》をひいたとみえ、大きなくしゃみが出てきました。
 紳士は驚いて立ち止まりました。頭の上で笑い声がして、次にくしゃみの音がしたのです。まさか、悪魔《あくま》の化《ば》けてる帽子《ぼうし》をかぶってるとは思わないものですから、あたりを見廻したり空を仰いだりして、きょとんとした顔つきで考えました。
「変だな」
 その時またさっと風が吹いてきました。悪魔はそれにま正面から吹きつけられて、くしゃんと、も一つくしゃみをしました。
「おや」
 こんどは紳士も頭の帽子に気がついたとみえて、手をあげて帽子を取ろうとしました。もう悪魔は絶対絶命です。手に取って見現《みあら》わされたら大変です。どうしようと思ったとたんに、ふといいことを考えついて、紳士の頭が横に傾いた拍子に、風に吹き飛ばされたふうをして、ふーっと往来《おうらい》に飛び降りて、ころころと転がって逃げ始めました。

      四

 紳士は大事な帽子が風に吹き飛ばされたのを見て、後を追っかけてきました。悪魔にとっては、つかまえられたら一大事です。一生懸命に転がって逃げました。紳士はどんど[#「どんど」はママ]追っかけてきます。そのうちに、立派な紳士と帽子とが駆けっこをしてるのを見て、大勢《おおぜい》の人がおもしろがってついて来ました。
「よく転がる帽子《ぼうし》だな」
「まるで生きてるようだな」
「おかしな帽子だな」
「つかまえてやれ、つかまえてやれ」
 大勢《おおぜい》の人が紳士と一緒になって追っかけてきます。つかまったら最後だ、と悪魔《あくま》は思って、くるくるくるくるまわりながら、一生懸命に逃げ出しました。あまり転がったので眼がまわって、めくら滅
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