、然し心理的に真実なのである。即ち、百人のうち九十三人までは欲望に生きており、七人だけが必要に生きているの謂である。或る囚人の話によれば、もし終身刑というものが字義通りに確実不動のものであったならば、その刑に処せられた者は到底生きておられないとのことである。クロポトキンがマルクス一派を最も憎悪した点は、人間の欲望の無視ということであった。
そういうわけだから、私が例えば一個の石に執着したとて、軽蔑されるには当らないのである。その頃私は可なり夢中になっていた。料理屋の女中をつかまえて、今一番ほしいものは何だい、などと口占をひいてみたり、こちらのことを反問されると、即座に得意げに、石だと、それが宛も恋人の名前でも云うように嬉しがったものだ。その私の言葉尻をとらえて、B君は盆石のことを話しだしたことがあった。尤もそれは父親から引継いだ趣味らしく、自分で集めたものは少なかったらしい。盆石といっても、主として水石であって、それも加工しない天然自然のものだけを好んでいたらしい。私はいろいろその話をきいたが、よく分らなかったし、多くは忘れてしまった。ただ苔の話だけは妙に頭に残っている。
「……苔と石とは、全く一体をなすものです。だから、苔が生きてるのか、石が生きてるのか、分らなくなりますよ。またそういう石でなければ、ねうちがありません。箱にしまいこんだ石を、一年も二年もたってから取出して、水をそそいでやりますと、その肌から、苔の美しい緑色がふいてきますからね、話をきいただけでは誰だって不思議に思いますよ。その不思議な、苔の生命というか、石の生命というか、そいつを見ていますと、逆に、人間の生命なんかつまらないものに見えてきますよ。わずか、これっぱかしの石ですがね……。」
この言葉は、私の頭に残ってるから書くだけのことで、それがB君の哲学だったわけではない。彼はもっと近代人であって、ただ、盆栽芸術の趣味といったようなものがどこか身についていた。
年齢は三十五歳ほど、腺病質な痩せた蒼白い男だった。大きな陶器商の長男で、もうその主人だったが、未だに独身だという点に、何かの影があるらしかった。学生時代に文学が好きだったとかで、時々文学の話をもち出して、その時ばかりは私は彼を嫌いになった。だが、私が陶器の話をはじめると、彼は嬉しそうにいろんなことを聞かしてくれた。一体、自分の職業に関する事柄を他人にあまり話したがらないのは、文学者や哲学者や美術家や音楽家に最も多いようだが、何故だろうか。平素精神的に余りに苦労してるからだろうか。
B君の死を自殺だったかも知れないなどと考える根拠は、実は殆んどない。こじつければあるにはあるが、それは文学的なものにすぎないように思われる。
B君は当時、家運が傾いていた。がこの点については私はよく知らない。但し破産とか或は閉店とか、そんな状態には立至っていなかったことは、其後店もなお立派に立っていることで明かである。
B君と芸妓K子とのことが、私の知ってる主なものだ。数年に亘る関係だったらしい。ところが、K子に旦那が出来かかって、その世話になるとかならないとかいう話だった。それでみると、K子はB君一人を守ったわけではないらしい。またB君も、ほかの土地ではちょいちょい浮気をしてたことを私は知っている。そしてK子の旦那云々の話を、匂わせられるか感ずるかした時、B君は微笑んで云った。
「旦那をもつのもよかろう。そしたら僕は遠慮するよ。」
「いやいやいや、そんなのいやよ。」とK子は云ったそうである。
それはまあ、大したことではないかも知れない。旦那があってそして好きな人が半人か一人あるのは当世なんだから。それに彼女の、「いやいやいや、そんなのいやよ。」というのは時々出る言葉らしく、眼のぱっちりした、骨まで細そうな小柄な彼女が、上体をくねらして、上半を駄々っ児らしい早い調子で後半を甘ったるいゆっくりした調子で云うのを、私も二三度きいたことがある。といっても私にではなく、私の飲み相手の芸妓に、何か二人の間のつまらない話の時に云ったのである。彼女たちが親しい間柄だったので、それで私もK子にはよく逢うことがあった。
その頃から殊に、B君の深酒が、時には自暴自棄かと思われるほどの深酒が初まったとのことである。そして簡単に、私の飲み相手の女の言葉をかりて云えば――「K子さんておかしなひとよ。Bさんがよく、最後に……って云うのが、あんまり度々なので、気になりだしたんですって。最後に、今晩はうんと飲もうとか、最後に、芝居へ行こうとか、最後に……浮気をしようとか、そういった調子なんでしょう。そのたんびに、例のいやいやいや……だったんだろうと思うわ。それが、その時はそれですんだけれど、Bさんが急に亡くなってみると、あの最後に[#「最後に
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