近愛読した登山記が二つあるからである。ウィムパーの「アルプス登攀記」と、ベヒトールトの「ナンガ・パルバット登攀」とだ。両書とも一気に、夜を徹して読み耽った。そして読後へんな気がしたのは、信念にまで高まった情熱の前には、如何に人の命が安価であるかということ、云いかえれば、或る場合には生命などは問題でなくなるほどに、情熱が信念にまで高まるということである。勿論ここでは大自然の中に於てであるが、その或る場合は、吾々の日常生活の中まで延長出来ると思われる。そしてこの或る場合というのは、いつも、情熱それ自体がそうである如く、必要以外のものなのである。時としては、常識的には至って下らないものなのである。
 必要というのは、茲では、喉の渇いてる者にとっての水、腹のすいてる者にとってのパン、性欲に飢えてる者にとっての異性の肉体、無一文な者にとっての金銭、そういうものを謂う。ところで、吾々にとって、必要なものは単に必要であるだけであって、それ以外の何物でもない。吾々がほんとに欲しいものは、別にある。「今何が一番欲しいか。」と尋ねられたら、大抵の場合――凡ての場合と云えないほど吾々は必要なものに不自由してるのを悲しむのであるが――大抵の場合、直接に必要でないもの、而も多くはつまらないものなのである。
 例えば私の経験から云えば、最大級に最も欲しかったものは、或る時は、不吉な因縁話のからんでいる小式部人形だったし、或る時は、四五尺の大きさの梟の剥製だったし、或る時は、幽霊が出ると云う青江の妖刀だったし、或る時は、ちょっと奇異な形をした丈余の自然石だった。つまらないものばかり欲しがってる奴だな、と云うのをやめて貰いたいことには、私はそんなものさえ買えないほど貧しかったし、さし迫って数百円か数千円かが必要だったのであるが、その困窮の中でも最も欲しいのは右のようなもので、屡々それを見に行き、始終空想していたのである。ただ幸か不幸か、その欲望が情熱にまで昂じなかっただけのことだ。とは云え、それは単なる人形や剥製や刀や石でなく、無限の拡がりを持ち得る或物だったのである。
 人は必要物によってよりも、むしろ欲望によって生きる。犯罪の原因を調べてみるに、必要によるもの七パーセントで、他の九十三パーセントは欲望による。あらゆる方面で必要にも事欠いている現代に於て、右の数字はおかしく思われるかも知れないが
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