きた。村井が春枝になにか耳打ちすると、やがて、サントリーのウイスキー瓶まで持出された。
 大五郎は顔の厚い皮膚をほころばした。そして満洲のことを論じだし、日本にとって満洲が如何に重要な地位を占むるかを説きたて、而も日本人一般が、南方にばかり心を向けて、満洲のことを忘れるようなのを、慨歎し初めたのである。
「分りました。」
 ぷつりと村井は話の腰を折った。
「だが、あなたは一つ考え落してることがありますよ。満洲は現在、謂わば銃後の土地でしょう。われわれは皆、前線の戦地のことを考えてるのです。満洲がもし前線となったら、その時には、お望み通り、皆が皆、満洲のことを考えるようになりますよ。」
「それがいけないんだ。ふだんから考えていなければ、いざという時には間に合いません。」
「然しとにかく現在は銃後ですよ。銃後はみな一心同体、東京も札幌も鹿児島も同じだし、日本も満洲も同じですからね。その一心同体が、この大戦争を遂行しているのではありませんか。」
 大五郎には、それがはっきりしなかった。腑におちない顔付で、ウイスキーのグラスをあけた。
「然しですな、満洲は新興の国ですよ。そのことを話しかけても、なぜ誰もそっぽを向くんですか。憤慨にたえません。」
 声が大きいので、客の二三人が振向いて眺めた。村井はにやりと笑った。
「相変らずやっていますね。」
 大五郎は気勢をそがれて口を噤んだ。
「まだあちこちで、満洲をもちだしているんですね。今晩はどこで飲みました。」
 何もかも見ぬいているように、眼で笑っていた。
 大五郎は何か重大なことを思い出そうとしてるようで、自分でもそう感じて、黙っていたが、ふいに、村井へ顔を近々とさし寄せて、囁いた。
「まだ、さっぱり見当りませんよ。」
 村井が反対に声高く笑った。それから、低いが力強い調子でいった。
「それがいけないんだ。」突然ぞんざいな言葉になっていた。「あなたは、その奉天の店をやらせる女を、女房がわりの女を、酒を飲み廻って探し廻っているが、それがいけないんだ。だから、あなたの満洲の話には、酒場の匂いがするし、金儲けの匂いがする。もういい加減によしたらどうです。誰も真面目に聞く者はありませんよ。」
 村井はじっと大五郎の眼の中を見た。
「ここにしたって、春枝までが笑っている。あんな真似は、満洲ではどうだか知らないが、こちらでは通用しませんよ。これからは、もう春枝には構わないで貰いましょう。」
 ウイスキーのせいばかりではなさそうだった。春枝を誘い出そうとしたことを、村井は知ってるに違いなかった。
 それでも、大五郎はたじろがなかった。なにか鈍重な酔いかたで、そしてちょっと浮いた気分で、彼方に立っている春枝の方を、明らさまに振向いて眺めた。若々しいきゃしゃな身体つき、ういういしい尖った※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]、捉え難い黒目、それらがぼやっとぼやけて、割烹着の花模様の青と黄と赤とがちらちらした。その色合の上に、あの、威勢のいい肉附豊かなお上さんの、小紋錦紗のはでな姿が重ってきた。彼女なら、東京者という金箔をつけて、奉天の店を繁昌させるだろうと、想念がちらと掠め去ったが、あとはただ白々しい空虚が残った。
 大五郎は首を垂れた。そこに、餉台の上に、村井の大きな握り拳があった。ばかに力がありそうな大きな拳だ。
「ほほう、大きな拳ですな。ムッソリーニの拳に似てますな。」
 村井は手を引っこめて、掛時計を仰ぎ見た。
「もうそろそろ時間ですよ。だいぶ酔いましたね。」
 それから、低いそして強い声で囁くようにいった。
「あまり度々、この近所を荒し廻らないがいいですよ。飲むなら、銀座あたりに出かけたらどうですかね。」
 大五郎はふらふらと立上った。ゆっくりと丁寧に靴の紐を結んだ。会社員らしい一人の客と春枝と、くすくす笑いあっていた。その方を、大五郎はつっ立ってじっと見たが、黙って表へ出て行った。
 彼の頭に、また大きな犬の姿が浮んだ。浮んでは消え、消えてはまた浮んだ。彼はその姿を追っかけて、胸の中で、声には出さないで、犬の吠え声をまねた。ふらふらした足取りが、その吠え声に調子を合せた。
 電車通りを、宿泊してる親戚の家の方へ辿っていると、薄暗い並木の蔭に、小さな男の姿が立っていた。彼はその小男の姿と向きあって立止り、じっと睥めくらをしてるうち、ふしぎな憤りを感じて、拳をかため一撃した。
 乗合バスの標柱が音を立てて転った。
 彼はその音を耳にしなかった。相手を打倒したはずみに、よろけて、並木にもたれかかったが、そのままずるずると身体をずらして、そこに屈みこんだ。そして軽い鼾の音を立てた。
 すさまじい轟音に、彼は眼を開いた。轟音とは似もつかず、玩具のような電車が彼方へ走っていた。彼はなにか腑におちぬらしく頭を振ったが、立上って歩きだした。

 十日ばかり後、関釜連絡船の中で走り書きしたらしい手紙が、木下大五郎から村井の許に届いた。時勢を慨歎する大袈裟な文句の末に、「数々の御教訓に預り」などとお世辞をいい、最後に簡単な意向が洩らされていた。――「単身彼地に帰還致すべく、彼地には小生を待ちわびる女性も有り、彼女と結婚の上、大陸に根を下す覚悟に有之候。」
 そこの文句に、村井はちょっと眼をうるまして、彼と飲んだウイスキー半瓶のことを思い出した。その頃には既に、木下大五郎[#「木下大五郎」は底本では「大下大五郎」]のことは、その帽子や外套の絨毛と共に、この辺の数軒の小さな酒場から忘れられてしまっていた。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「知性」
   1942(昭和17)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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