残りを投げやっても、食べようとしない。足をふみ鳴らして立上らせようとしても、きょとんとしている。そして酔客から酒をぶっかけられると、ぶるっと身体をふって雫をきり、のっそりと外へ出て行くのだった。それが、老犬や病犬ではなく、大きな逞ましい若犬なのである。
 何のために店へはいってくるのか、誰にも分らなかった。物も食べず、何とされても怒りもせず、のっそり出て行くのが、誰にも不思議だった。それから寒気がきて扉を閉めきるようになると、全く姿を見せず、往来にも見られなくなってしまった。
 その犬のことを、大五郎はまざまざと眼前に思い浮べた。そしてとぎれとぎれの言葉を呟いた。それは単なる言葉や想念ではなく、はっきりした犬の形態として酔眼に映じたものだ。
 ……あいつは場違いだ……場違いだから、人に勝手な真似をさした……場違いだから、怒れなかった……怒る気もない……こいつは、ちとおかしい……場違いとは、在るべきところに居ないということか……そんなら、なぜはいってくるんだ……何かがある……場違いにも何かがある……場違い、場違い……だが、しっかりした足つきで、のっそり出て行きやがる……強い足だ、強い歯だ……そうだ、馬革の靴だ……見ろ、馬革の頑丈な靴だ……。
 大五郎は馬革の重い堅い靴をはいていた。舗装路の上に、靴はかたっかたっと音を立てた。彼はそれを自ら楽しんだ。
 靴音を楽しみながら歩き続けて、殆んど無意識な予期のもとに、真鋳の横棒を二本渡した硝子戸の内にこもった明るみが、眼についた。
 彼はその中にはいった。
 数名の人影があった。正面に、白い顔の奥深い黒目が、にこりともせず冷かに頷いてくれた。
「酒を下さい。」
 いやに丁寧なのが、愚鈍なぼやけた気持となって返ってきた。彼はその気持のなかから、浮び上るようにして、春枝の姿を眺めた。割烹着の細かな花模様の赤と黄と青とが、ちかちかと眼を刺激[#「刺激」は底本では「剌激」]した。彼は眉をしかめて酒を飲んだ。
 客はみな黙っていた。ふしぎなほど黙っていた。大五郎も黙っていた。
 奥に通ずる木の扉を静かに開いて、中年の男がはいって来た。短い口髭をはやし、和服姿の肩がまるく、でっぷり肥っている。それが村井だと、水の中のような静けさのなかで、大五郎は気付いたのだが、やはりじっとしていた。
 村井は真直に大五郎の方へやってきた。
「やあ、いらっ
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