せん。」と云って今井は鼻の涙をすすり上げた。
「だってあなたは……。」
「いえ、何でもありません。」
「そんならいいけれど……。」そして彼女はまた繰返した。「御免なさい、ねえ。私には何にも分らないんですもの。」
 今井はぴょこりと頭を下げた。
「私の方が悪いんです。あなたは全く純潔です。ただ、愛のことを考えといて下さい。すぐに分るんです。ほんとに考えといて下さい。」
「ええ。」
「屹度ですね。」
「ええ。」
 それから、今井は黙り込んで、いつまでたっても石のように固くなっていた。澄子は立上って、自分でも訳の分らないことを考え込みながら階下に下りていった。
 奥の室で、箪笥の中を片付けていた母に、ぱったり顔を合して、その顔をぼんやり見つめると、澄子ははっと夢からさめたように、頭の中がすっきりして来て、今井と交えた滑稽な会話が、まざまざと思い浮べられた。そして急に可笑しくなって、其処に笑いこけてしまった。
 辰代は呆気《あっけ》にとられた。
「澄ちゃん! どうしたんですよ。狂人《きちがい》のように笑ってばかりいて!」
「だって可笑しいんですもの。」
「何が?……どうかしましたか?」
 笑いの発作が静まって、少し落付いてから、澄子はなおくすくす残り笑いをしながら、今井との対話を話してきかした。
 辰代はじっと聞いていた。今井が嘘を云ったことについては、さほど怒りはしなかったが、愛のことになると、むきになって腹を立てた。澄子は喫驚した。
「まあ、可笑しなお母さんだわ!」
 辰代は澄子の云うことなんかは耳にも入れなかった。
「失礼にも程があります。人の娘に向って、それもほんの子供に向って、何というぶしつけな厚かましいことでしょう。お父さんが亡くなられてから、人様をお世話していますが、それほど踏みつけにされるようなことを、私はまだ一度もした覚えはありません。嘘をついて人の家にはいり込んできておいて、こちらで親切にしてやれば、図々しくつけ上って、何をするか分りはしません。私は何も道楽でこんなことをしてるのではありませんよ。払いも満足に出来ないくせに、何ということでしょう。眼に余ることがあっても、お気の毒だと思って、随分親切に尽してあげたつもりです。それなのに恩を仇で返すようなことをされて、いくら私でも、もうそうそうは辛抱出来ません。とっとと出て行って貰いましょうよ。出て行かなければ、私の方で出ていってしまいます。……澄ちゃん何をぼんやりしているのですよ。そう云っていらっしゃい。あなたが嫌なら、私がきっぱりと断ってきます。」
「そんなことを云ったって、お母さん……。」
「いえいえ、止して下さい。もう我慢にも私は嫌です。」
 そして彼女は、そこいらの品物に当りちらした。澄子がいくら宥めても駄目だった。中村が帰ってくると、澄子は飛んでいって、訳を――自分にもよく腑に落ちないその顛末を、かいつまんで話してきかした。そして中村と二人で彼女を宥めた。
「またこんなことがあろうものなら、もう此度こそ許しません。」
 そう云って辰代はまだ怒っていた。
 中村は笑いながら澄子の方を顧みた。
「だから、澄ちゃんは用心しなければいけないと、僕が云っといたじゃないか。」
「だって、」と澄子は不平そうに呟いた、「私何も悪いことをしやしないわ。」

     四

 それから一週間とたたないうちに、辰代も本当に我慢しかねることが起った。
 今井の所へは、なお時々怪しげな青年が訪れてきた。飯を食っていったり、下駄をはいていったり傘を持っていったりして、そのままになることが多かった。そして七月の熱い日に、初めて夕立がして、その雨がまたじとじと降り続いてる夕方、洗いざらしの浴衣に短い袴をつけ鳥打帽を被った男が、びしょ濡れになってやって来た。雨の中を板裏の草履で歩いて来たので、背中まで跳泥《はね》が一杯上っていた。辰代はそれを、一度見たような男だとは思ったが、はっきり思い出せなかったので、気がつけば放っておけない気性から、袴だけ脱がして、火に乾かして泥を落してやった。そして彼は、夕飯を食って、袴をつけて、雨がまだ少し降ってる中を、緑に礼も云わずに帰っていった。辰代はわざと、傘も貸してやらなかった。今井ももう、自分の傘を持ってはいなかった。
 するとその晩、中村が一寸外出しかけると、足駄が見えなかった。何処を探しても見付からなかった。確かにその足駄は、辰代が昼間洗い清めて、裏口に干していたのを、夕立の時慌てて取込んで、玄関に置きっ放しにした筈だった。そう思って彼女は、なお玄関の土間をよく見ると、隅の方に板裏の汚れ草履が脱ぎ捨ててあった。あの男が足駄をはいていったに違いなかった。
 丁度今井が玄関の茶の間に坐っていたので、辰代はその方へ急き込んで尋ねた。
「この草履は、あなたの所
前へ 次へ
全21ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング