です。そして病気に対して、その直接の反対のものを探し出すのが、医学の仕事でしょう。所が現在の医学では、そういうアンチ療法ということは、ごく僅かしか行われてやしません。行うことが出来ないんです。それで大抵は廻りくどい間接療法ばかりです。間接療法をやってるうちには、病気の方で衰えて、それで癒ったように見えることもありますが、それは偶然の結果で、実を云うと、病気は独りでに自然に癒ったのです。そして多くは、間接療法のために他の器官が弱らされて、回復が長引くばかりです。そんなことになるよりは、自然のまま放っておく方がましです。癒るものなら必ず癒るし、死ぬものなら必ず死にます。」
「驚きましたね、あなたから医学の講義を聞こうとは思いませんでしたよ。」そして中村は取ってつけたような笑い方をした。「そうするとあなたは……運命論者ですね。」
「反対です。生きるも死ぬるも自分の手で処置したいから、あやふやなことに望みをかけないだけです。」
中村が何か云い出そうとすると、辰代はその袖を引張った。それで彼はただこう云った。
「その議論は全快されてからにしておきましょう。そして……いやそれくらい頭がはっきりしていられるんですから、大丈夫必配なことはありません。一寸した冷込みでしょうから、温くして寝ていられるがいいですよ。」
中村が出て行こうとすると、今井は身を起しかけたが、手で制せられて、またがっくりと頭を枕につけた。
辰代は中村の後を追っかけて、階下《した》に下りてきた。
「ほんとに喫驚なさいましたでしょう。私もあんな人だとは思いませんでした。どうぞお気を悪くなさらないで下さいましな。ああいう変った方ですから、悪気《わるぎ》で仰言ったのではございませんでしょうし、熱の加減もあったでしょうし……。」
「なあに私は何とも思ってやしません。それでも、医学の説明を聞かされたには一寸驚きましたね。」
「そして、どうなんでございましょう?」
「自分で大丈夫だと云っていますから、それより確かなことはありませんよ。ただ頭だけは冷してやった方がいいんですがね。」
「ではそう致しましょうか。」
辰代は水枕をしてやり、額を水手拭で冷してやった。今井は黙ってされるままになっていた。そのうちにすやすやと眠った。辰代は少し安心した。
所がその晩、辰代と澄子とがもう寝ようと思って、二階の様子に耳を傾けると、かすかな呻き声が聞えた。辰代は驚いて上っていった。見ると、今井は半ば布団から乗り出し、額にじっとり汗をにじませ、夢現《ゆめうつつ》のうちに呻っていた。身体が燃えるように熱くなって、熱っぽい息をつめながら呻っていた。辰代は狼狽し出した。そして澄子を呼んだ。
「まあ、大変な熱だわ。」と澄子は叫んだ。
「中村さんをお起ししましょうか。」
「でもお母さん、またあんなことになったら……。」
「それもそうですね。どうしましょう?」
「氷で冷したらどうかしら。」
そして取敢えず、澄子が水手拭で額を冷してやってる間に、辰代は氷を買いに出かけた。もう十二時近くだった。近所の氷屋へ行って、幾度も戸を叩いて、漸く起きてきたのに尋ねると、氷は無くなったとの返辞だった。辰代は口の中で不平をこぼしながら、少し遠くの氷屋へ行きかけたが、懇意な家でさえこうだから……と見切りをつけて、急いで帰ってきた。
それから辰代と澄子とは、寝もしないで今井の頭を冷してやった。水枕の水も金盥の水も、水道ので初めからそう冷くはなかったが、すぐ湯のようになった。幾度も取代えて来なければならなかった。
雨はまだしとしと降り続いていた。夜が更けるに随って、雨が霽れてゆくのか、或はその音が闇に呑まれてゆくのか、あたりはしいんと静まり返った。時々呻り声を出したりぼんやり眼を見開いたりする今井の顔を、二人はじっと見守っていた。どうしたことか、天井裏の鼠の音さえしなかった。それにふと気付くと、澄子はぞっと水を浴せられたような気になった。
「あなたはもう寝《やす》んでいらっしゃい。明日《あした》学校があるから。」と辰代は云った。
澄子はただ頭を振った。低い母の声までが無気味だった。今井さんは死ぬんじゃないかしら、とそんな気もした。辰代が水を取代えに立ってゆくと、彼女は自分でも訳の分らないことを一心に念じながら、今井の額の手拭を平手で押えてやった。ずきんずきん……という音のようなものが、手拭越しに伝わってきた。
そのうち次第に今井の熱は鎮まってゆくようだった。それでも二人は、夜明け近くまで冷してやった。ごく遠くの方から、かすかなざわめきが起ってきて、寝呆けたような汽笛の音がした。それから暫くたった頃、すやすや眠っていた今井は突然眼を開いてあたりを見廻した。
「お気がつかれましたか。」と辰代は云った。「ひどいお熱でございました
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