変な男
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)辰代《たつよ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)私|謝《あやま》る

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
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     一

 四月末の午後二時頃のこと、電車通りから二三町奥にはいった狭い横町の、二階と階下と同じような畳数がありそうな窮屈らしい家の前に、角帽を被った一人の学生が立止って、小林寓としてある古ぼけた表札を暫く眺めていたが、いきなりその格子戸に手をかけて、がらりと引開けるなり中にはいった。其処の土間から障子を隔てた、玄関兼茶の間といった四畳半の、長火鉢の前に坐っていた女主人の辰代《たつよ》が格子戸の音に振向きざま、中腰に二三歩して、片膝と片手とを畳につき、するりと障子を引開けてみた。が、互に見知らぬ顔だった。
「甚だ突然ですが、実は……。」
 出迎えが余り早かったので学生は一寸面喰った形で、そう云い出したまま後は口籠ったのを、辰代は人馴れた調子で引取った。
「何か御用でございますか。」
 誘われたのに元気づいてか、学生ははっきりした言葉使いで云い出した。
「私は帝大の文科に通っている、今井梯二という者です。お宅で室を貸して下さることを、友人に聞いて参ったのですが、貸して下さいませんでしょうか。」
「それでは、あの、どなたかお友達の方が……。」
「ええそうです。」と、今井は俄に早口になった。「友人の友人がお宅にお世話になっていましたそうで、大変親切にして頂いて、非常に感謝していました。それを聞きましたので、お室が一つ空いていたら、私に貸して頂きたいと思って、参ったのですが。」
「左様でございますか。宅では、どなたか知り合いの方の紹介があるお方だけに、お願いすることに致して居りますけれど、そういうわけでございましたら、室の都合さえつけば宜しいんでございますが、只今一寸……。」
「いえ紹介なら、すぐにでも貰ってきます。是非貸して頂きたいんです。」
「それでも、空いてるのは四畳半一つでございますし、今日の夕方までに返事をするから、それまで誰にも約束しないでくれと、頼んでおいでになった方もございますし、今すぐと申しましては……。」
 辰代は言葉尻を濁しながら、相手の押しの強い調子を、図々しいのか或は朴訥なのかと、思い惑った眼付で、先ずその服装を――古ぼけた角帽や着くずれた銘仙の袷や短い綿セルの袴や擦りへった山桐の下駄などを、一通り見調べておいて、それから詳しく説明した。二階の八畳と四畳半とを客に貸しているが、今空いてるのは四畳半の方で、食事は朝だけしか世話が出来ず、その一食附きで月に十五円であること、午と晩との食事は、自炊でも他処から取るのでも、それは客の自由であること、それが承知なら貸してもよいが、ただ、夕方までという先約の学生の返事を待たねばならないこと。
「そういうことになっておりますので……もしお宜しかったら、また夕方にいらして頂けませんでございましょうか。」
「夕方……。」と繰返して学生は可なりの間、何やら考えてる風だったが、辰代がまた口を開こうとすると、急に云い出した。「それじゃ、その人が駄目になったら、是非私に貸して下さい。朝飯だけ拵えて頂いて、午と晩とが自炊なら、丁度私に好都合なんです。四畳半で十五円、それで結構です。私は只今、苦学のような形式で勉強してるんですから、万事好都合です。よろしくお願いします。もしお差支なかったら、夕方まで此処で待たして頂けませんでしょうか、もうじきですから。どんな学生か知りませんが、朝飯だけで承知するような者はなかなかいやしません。夕方またやって来るなんて云うのは、体《てい》のいい口実です。大抵来やしません。よし来たって、断るに極っています。私の方に貸して下さい。夕方まで来なかったら、それで宜しいんでしょう。よし来たって、私が談判してやります。では此処で待つことにしますから。」
 そして彼は玄関の式台に腰を下してしまった。辰代は呆気にとられた風で、一寸言葉もなかったが、それなら兎も角も上って待っていて下さいと、ほんのお座なりに勧めてみた。
「そうですか、それじゃ失礼します。」
 躊躇もせずにのこのこ上りこんで、入口に近い片隅に坐り、角帽を傍に引きつけて、きちんとかしこまった。その様子が何だか滑稽じみていたので、辰代は一寸待遇してやる気になった。そして座布団と茶と菓子とをすすめた。然し彼はそれらには手もつけなかった。
「どうぞお構いなく。」
 そう云ったきりで、狭い庭の方をじっと眺めていて、一応室を見るようにと云われても、端坐した
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