きつい調子でそう云われて、辰代は面喰ったように眼をきょろつかせた。そして何とも云わないで、奥の室に逃げ込んでいった。
 暫くして、澄子がそっと覗いてみると、辰代は薄暗い電燈の下で箪笥にぐったりよりかかって、涙が頬に流れるのも自ら知らないらしく、寝間着の薄い襟に※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を埋めて、深く考えに沈み込んでいた。澄子は喫驚して、中村の所に戻ってきた。
「お母さんは、泣いてるのよ。」
「放っとくがいいよ、お母さんも今井さんも、揃いも揃って狂人《きちがい》ばかりだ。」と中村は云って、何故か首を振った。「まあいいさ。これをきっかけに、今井さんに出ていって貰わないと、どんなことになるか分らない。そうなったら、澄ちゃん一人が困るじゃないか。」
「そりゃ困るわ。」
「だから、皆の気が変らないうちに、早く俥を呼んでおいでよ。」
「そうしましょうか。」と澄子はまだ思い惑った調子で云った。
「そして、お母さんには何とも云っちゃいけないよ。」
「ええ。」
 澄子は大急ぎで着物を代え髪を一寸なでつけて、俥屋へ駈け出していった。その俥がまだ来ないうちから、今井は来た時と同じ三個の荷物を、一人で玄関に並べてしまった。そして挨拶もしないで、荷物を積んだ俥の後の俥にのって、朝靄のかけてる通りを、石のように固くなりながら去っていった。
 中村と澄子とがぼんやりその姿を見送った。辰代はまだつくねんと奥の室の隅に黙り込んで、顔をも出さなかった。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2006年4月27日作成
2008年5月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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