いで、猫板の上を一杯涙で濡らしていた。
 澄子は二人の姿を――髪を乱して庖丁を握りしめながらつっ立ってる辰代と、火鉢によりかかって涙を流している今井とを――見比べてみたが、ぞっと背中が冷くなって、奥の室に逃げ込みかけた。その足を俄に返して、二階の階段を駈け上った。そして中村を激しく揺り起した。
「来て頂戴よ、早く。お母さんと今井さんとが大変です。早く……。」
 中村はゆっくり背伸びをしてから起き上った。そして着物を着代えた。帯を結んでる所を、澄子に引張られて下りてきた。
 辰代と今井とは、先刻のまま身動きもしないでいた。奥の室から流れ寄る薄暗い光に、中村はじろりとあたりの様子を見て、ぱっと電燈のねじをひねった。その明るい俄の光が、非常な効果を与えた。今井は夢からさめたように顔を挙げて、肩をすくめたが、それから寝間着の袖口で、猫板の上の涙を拭き取った。辰代も同じく夢からさめたように、手に握ってた庖丁に自ら気付いて、それを奥の室に投げやって、其処にぐたりと坐った。
「一体どうしたんです?」と中村は誰にともなく尋ねかけた。
 誰も返辞をする者がなかった。いつもあんなにいきり立つ辰代が、その時に限って何とも云わないことから、中村は事の重大なのを見て取って、縁側の方へ身を避けた。澄子もついていって、彼の後ろに身をひそめた。幾匹も蚊が集ってきた。そしてひどく蒸し暑かった。中村は立上って雨戸を二三枚開いた。外にはもう白々と夜明けの光が漂っていた。中村は思い出したように欠伸をして、凉しい空気を胸深く吸い込んだ。その時、今井の声がしたので、振向いてみると、今井は辰代の前にかしこまりながら、乱れた調子で云っていた。
「……私にはどうにも出来なかったんです。いけないと思えば思うほど、益々心が囚えられていったんです。然し自分では、真剣な恋だと思っています。余り真剣すぎる恋だと思っています。がそれももう駄目になりました。いくら※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いても、どうにもならないことを悟りました。諦めます。一生懸命諦めます。」そして彼は歯をくいしばった。「諦められるかどうか分りませんが、兎に角努力してみます。それで、私は今日から引越すことにします。このまま愚図愚図してるのは、私のためにもあなた方のためにも、いけないことのように思われるんです。ただ私は、金がちっともあり
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