れは私の思い過ぎかも知れない。」と彼女はまた考え直してもみた。
実際今井が変人だということは、日常の様子を見てもすぐに分った。辰代や澄子や中村などと顔を合せる時には、馬鹿に丁寧な挨拶をすることもあれば、むっつりとして眼を外らすこともあった。それがまるで気紛れで、こちらから挨拶すべきかどうか、その時々の見当が全くつかなかった。挨拶をしてるのに外方《そっぽ》を向かれることもあるし、黙ってるのに丁寧な挨拶をされることもあった。両方うまく調子が合うことは稀で、大抵は気まずい思いが残った。それからまた、毎晩玄関の茶の間に集って、皆で一寸世間話をするのが、殆んど習慣となっていた。中村は、一日病院で働いてしみ込んだ薬の香を、それによって消し去りたい気もあったろうし、澄子は、いろんなことを云って中村に甘えて、父や兄弟姉妹のない淋しさをまぎらしたい気もあったろうし、辰代は、話の仲間入りしてる風をしながら、自由に居眠りたい気もあったろうが、然し何よりも、皆揃ってのそういう雑談は、それが習慣となってしまうと、欠かしては何だか物足りないような、知らず識らずの淡い魅力を持っていた。所が今井は、辰代がいくら誘っても、越してきて一二度顔を出したきりで、その雑談の席に加わらなかった。辰代もしまいには誘わなくなった。そして時によると、今井に留守を頼んで皆して活動写真や寄席に出かけた。今日は私が留守をするからと中村が云い出し、辰代が今井を案内しようとすることもあったが、そんな所へは行っても退屈するばかりだと、今井はきっぱり断った。
その退屈という言葉が可笑しいと云って、澄子は笑った。
「あんなに一日中じっとしていて、その方がよっぽど退屈な筈だわ。」
そして彼女は、そのことを今井に向ってまで云った。
「じっとしていても私は退屈はしません。」と今井は答えた。
「じゃ何が面白いの?」と澄子は尋ねた。
「何にも面白いことはありません。」と今井は答えた。
「それではやっぱり退屈じゃありませんか。」
「いえ、面白くもないが退屈でもありません。」
「では何でしょう?」
「そうですね、何でしょう?」そう彼は繰返して、俄に陰鬱な顔付になった。「まあ、夢をみてるようなものですね。」
「だって夢は面白いものだわ。」
「それは後から考えるから面白いので、みてる当時は、面白くも退屈でもありません。」
「あら、そうかしら…
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