った。実際、彼にそれだけのお金があるのなら、何をしようと彼の勝手だった。けれども、ただ一つ、辰代も我慢しかねることがあった。
 今井の所へは滅多に友人も来なかったが、それでも時々、怪しい風体の者がやって来た。髪を長く伸していたり、または一分刈りに刈り込んでいたり、髯をもじゃもじゃに生やしていたりする、同年配の青年等で、狡猾とか陰険とかいう風貌ではなかったが、少しばかりの朴訥さの見える図々しさを具えていて、それが大抵、雨の降る夜更けなどに訪れてきた。雨の中を傘もささずにやってきて、霽れ間を待ちながら、自分の濡れた着物と今井の乾いた着物とを、着代えては帰っていった。そしてそのまま、いつまでたっても着物を返しに来なかった。夜更けてやって来る者は、よく腹が空いてると云っては、何か食べる物を取寄せて貰った。中には翌朝までいて、飯を食ってゆく者もあった。
「食べるものくらいは、どうにでもなりますが、」と辰代は憤慨の調子で云った、「こんなびしょ濡れの着物を、あなたはどうなさいますか。それも後で取代えにでも来れば宜しいんですが、着て行きっきりですもの。こないだも、あなたの足駄をはいていって、その上御丁寧にも、自分の駒下駄は新聞に包んで持っていって、そのまま姿も見せないでございませんか。こんな風だったら、今にあなたは身体一つになっておしまいなさいますよ。」
「だって、みんな私の所を当にして来るんですからね。」と今井は云った。
「そんなに気がお弱いから、あなたはつけ込まれるんでございますよ。第一、他人の物を当にして来るって法がありましょうか。自分の物も他人の物も区別しないようになりましたら、世の中に働く者はありはしません。」
「いえ、彼奴《あいつ》等だって、相当には働いてるんです。今働いていなくても、これから、後に、大いに働くつもりでいるのです。それで取返しがつくじゃありませんか。」
「取返しがつきますって! そんなことを云ってらっしゃるうちに、あなた御自身はどうなります? 今に何もかも持ってゆかれてしまうではございませんか。」
「なあに私は、こうしていさえすれば、どんなことがあってもへこたれはしません。意志がしっかりしていますから。」
 辰代は呆れ返ったように相手の顔を見つめた。そしてやがて云った。
「あなたくらい分らない方はありません。私がこんなに心配していますのに、当のあなたがそ
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