痒さを我慢してる精神や、擽ったさを我慢してる精神などが、在るわけである。
更に、絵画や彫刻や文学作品などにも、痛さと痒さと擽ったさのどれかを我慢してるものが在るわけである。――私はそういうものを少し物色してみたことがある。非常に面白い結果を得た。だがここにはそれを列挙するを憚るとしよう。
E
仔細あって、各地の民話を調べていたところ、随分面白いのがある。ちょっと風変りなのを拾い出してみようか。――これはフランスのべリー地方のもので、簡略に書き直してみたもの。
――バルバリー、タルタリー、パリーからのお戻りか。あちらに何かあったかね。
――銀の羽子の鳥を見たよ。
――そんなのがいるものかい。
――嘘か本当か、伴の男に聞いてみなさい。
――おう伴の人、銀の羽子の鳥を見たとか、御主人が云うのは本当かね。
――それは違うよ。私は銀の翼の鳥を見たが、その鳥のことでもあろう。
――バルバリー、タルタリー、パリーからのお戻りか。あちらに何かあったかね。
――ぼうぼう燃えてる池を見たよ。
――そんなのがあるものかい。
――嘘か本当か、伴の男に聞いてみなさい。
――おう伴の人、ぼうぼう燃えてる池を見たとか、御主人が云うのは本当かね。
――それは違うよ。私は尻尾の焦げた鯉の泳ぐを見たが、その池の鯉でもあろう。
こんな調子で長く続くのである。而もこれは民話というより、一種の民謡で、歌うように語られるのである。
こんなことを肥った年とった女が、日当りのよい庭などで、編物をしながら、或は糸車を廻しながら、孫でもあろう子供に歌ってきかしている、そうした光景を想像するのも、時にとっては一興である。
F
宮本武蔵政名が、仇敵佐々木劔刀斎岸柳の動静を探らんがため、変名して木下家の足軽に住み込んでいた頃、この木下若狭守の居城、播州姫路の城の、五重の天主閣の絶頂には、嘗て羽柴筑前守秀吉がそれを造営した頃より、故あって、高野師直の娘|刑部《おさかべ》姫の霊が祀られてあって、そこへ登ること相成らずと禁ぜられていた故、其後誰一人登った者もなく、もし登れば刑部明神の怒りにふれて命を失うものと、いつしか言い伝えられていた。その怪異を見届けんがため、宮本武蔵は家老木下将監の内命を受けて、この陰々たる天主閣、下が千畳敷、二重が八百畳、三重が六百畳、四重が四百畳、五重が百畳敷、その頂上へ登ったところ、深夜、灯火も消えた闇の中に、瞭然と、十二単衣に緋の袴、薄化粧のあでやかな女性が、刑部明神と名乗って立現われ、さすがの武蔵の武芸を以てしても、それを取押えることが出来ない。斯くすること両三度に及び、武蔵は如何にも残念に心得、思案をこらすうち、夢中に悟るところあって、姫路の城下を去ること三里、法華ヶ嶽という山に、名木薬王樹の一枝を求めに行った。其処ではからずも、世に隠棲している竹光柳風軒に出逢い、姫路の天守閣の怪物は、狐三百歳にして黒狐《こっこ》となり、五百歳にして白狐《びゃっこ》となるという、その黒狐であることを聞き、なお退治の方法を教わり、薬王樹の一枝をも貰い受けた。うち喜んだ武蔵は、姫路の天主閣の頂上に登り、身構えて待ち受けたるところ、深夜忽然として、またもや刑部明神の姿が立現われ、武蔵の方をはったと睨んだ。この時武蔵は少しも騒がず、静かに薬王樹の一枝に手をかけ、竹光柳風軒の教えにより、凡て通力を得た奴は、前に姿を現わすと雖もその本体は後ろに在ることを知る故、前面の刑部姫には眼を止めず、そっと後ろを振向けば、武蔵の身体を離るること、三間ばかりのところ、何やら黒く蹲まっているものがある。さてこそと、武蔵は身を開きざま薬王樹を振被って、気合の声と共に打下した……。
――これは勿論、事実ではなく、宮本武蔵黒狐退治の講談の一節の概略である。講談ではあるが、なかなかに面白い。何が面白いかといえば、凡て神通力を得たものは、その偽りの姿を人の前方に現わすと雖も、その本体を常に人の後方に置く、というただその一事である。ただその一事だけではあるが、それだけではあまり素気ないから、少々味をつけて、講談のあら筋をまねてみたのである。この一事の秘訣を知っているのは、ただに神通力を得た妖怪ばかりとは限るまい。文筆の士も往々にして、意地悪い楽しみからそういう悪戯をやることがある。だがそれはほんの余興で、もしそれが常習となる時には、精神はねじけ心情はくらむ。
然しながら、勝敗を争う方面に於ては、黒狐的方法は、一の戦術として、既に孫呉の昔から闡明されている。当然のことながら、戦争には常にそれが応用されているし、囲碁将棋にも応用されている。――更にこれが、悲しくも、外交にまで応用されるようになったのは、誰の罪であろうか。――更にこれが、一層悲しいことには政治にまで応用されることがあるようになったのは、何の罪であろうか。斯かる政治は、民衆の知慧をして政治から離反せしむるの結果をしか齎さないであろう。
G
千九百三十一年のこと、南仏の地中海沿岸で冬を過した二人のパリー婦人が、復活祭後、パリーへ戻ることになった。その一人、D夫人は自動車で行くことにし、も一人のB夫人は、マルセイユの親戚を訪れるため、汽車で行くことになった。ところが、D夫人には一匹の愛猫があった。精悍放縦な美しいシャム猫でアユーチアと呼ばれていた。このアユーチアは自動車が嫌いで、その代り汽車をさほど嫌がらない。そこでD夫人は、それをB夫人に託した。空色の籠の中に、柔かな綿を敷き、そこに猫をとじこめてこまごまと依頼した。B夫人はそれを受取り、身に代えて大切にしてやると誓った。
然るに、そのアユーチアが姿を消したのだ。B夫人がマルセイユの親戚の家に着いて、籠からアユーチアを出してやろうとすると、驚くべきことには、美事なシャム猫の姿は見えず、汚い灰色のどら猫が、のっそりとはい出して来た。
全く腑に落ちない事件だった。空色の籠はまさしくD夫人から預ったままのものである。途中で何者かが、全然同様な籠とすりかえたのであろうか。或は、中の猫だけをすりかえたのであろうか。それとも、あのアユーチアがどら猫に化けたのであろうか。その謎は解かれずに終った。
――この話は全く事実である。この事のために、D夫人はB夫人と諍いを生じ、D夫人は弁護士に依頼して、B夫人を相手取り、愛猫喪失の慰藉料を請求した。その記録まで残っている。D夫人は後で思い直して、その訴訟を取下げはしたが、一時はかっとなって訴訟にまで及んだことに、シャム猫の主人公たるパリー貴婦人の面目が窺われないでもない。
日本では、猫はその死にぎわに失踪して決して死体を人に見せないと、昔から云い伝えられている。然し当節では、猫も人の看護を受けながら、畳の上、布団の上で、安らかに息を引取る。猫に通力が無くなったのであろうか。否、事実は、昔の猫は病苦のあまりやたらにうろつき廻り、そこらの藪の中や物陰に我と我身をつきこんだものだったが、当節では、文化的看護の方を信頼するようになったのであろう。文化の進歩に依る――遺憾ながら――猫性の退歩である。
H
私は或る夏、大阪府下の或る教護院で四十日ばかり暮した。そこの少年少女たちの生活に親しむのが主旨であったが、後には、昔そこにいた少年少女たちの生活記録の補綴が主な仕事となった。ところで、親しく談話を交えたり、真裸で河水のなかで共に遊んだり、其他いろいろ、日常生活に於て得た実際の印象と、それから記録を調べて得た知識と、その両者がへんに喰い違って、初めのうち両者どちらにも余り信用がおけない気持になったものである。
このことは、多くの場合に、経験されるところだろう。実際の印象と記録による知識との喰い違いは、よくあることである。だからといって、両者を否定してかかれば何にも得られないことになる。悩みは、両者を如何に案配統一するかに在る。これに比ぶれば、文学の世界の純一性が貴く思われる。文学の世界に於ては、実際的印象と調査的知識とは、創作上の感性によって初めから統一的に運用される。
だが、この問題についての饒舌は止めよう。実は他のことを云うつもりだったのである。
少年教護院というのは、昔の少年感化院である。感化院といえば誰にでも或る観念が浮ぶだろう。然るに私がはいっていた大阪の教護院は、一般の感化院的観念とは、凡そ異った施設がなされてるのであった。その最も大きな一例は学院の構えである。
この教護院は、赤土砂礫の松山の中腹から裾地へかけて、四万坪あまりの敷地を占めている。街道に面して正門が一つ、ぽつりと建っていて、そこには門番は固より居らず、門扉は昼夜開け放しで、ただ門柱を二本立てたに等しい。それだけで、学院には敷地をめぐらす柵さえもない。平地の方面では、学院内の地所と他の地所とが、耕地の畦で区別されてるだけであり、小路は平らに通じており、山手の方面では、地所の境界さえ定かでない。全く四方八方開放されてるのである。
こうした学院の中で、世間では不良だと言われてる二百名余りの少年少女が、勉強し労働しまた遊びまわってるのである。外部からは学院内の各家庭に訪客や商人などが自由にはいって来るし、深夜迷い込んでくる怪しい男までないではない。然し院生等は、時折の登山や遠足などに連れ出される外、無断外出は一歩たりとも厳禁されている。
こうした状態に於て、たとえ厳禁されてるとはいえ、また教師保姆の不断の警告があるとはいえ、所謂不良少年少女の二百余名のうちに、無断外出がないとすれば驚異であろう。そして実際、無断外出は屡々ある。屡々あるが、然し意外に――私などが意外とするほどに――少い。学院の立前としては、外出後の所業だけが問題であって、無断外出はさほど恐れない。余し実際に於ては、恐れるほどに多くはないのである。
これが普通の少年少女であったとしたら、たとえ無断外出を厳禁されたとしても、案外に禁を犯す者が多かろう。然るに院生等には意外なほど少い。特殊の個人には何回も繰返して禁を犯す者もあるが、一般的にはごく少い。これは彼等に対する平素の訓育の効果もあろうし、学院の院風といったものの作用もあろうが、然し、彼等がこの禁制に意外なほど従順なところに、或る人は、彼等自身の憂鬱を見て取る。何かしら過去の所業から来る重圧のもとに、そうした一種の諦めに似た憂鬱さに陥ってるところに、そしてそこには自発的自己鍛錬の心が少いだけに、或る人は、彼等に対する不憫さを覚ゆる。
だが、この或る人の感懐にはまだ私心があろう。吾々の道徳は、大体地理的境界に基くところが多い。吾々は実際、デパートには自由に出入しても、単に品物を見るだけのために普通商店にははいりかねるし、開け放してある人家に好奇心ではいって行くことは出来ない。普通の義理人情や仁義などから、善悪の悟性に至るまで、そこには或る地理的境界というものが考えられる。これは所有権の問題とは全く別物で、公地公道に於てのことである。人の道徳には一種の精神的地理がある。教護院の所謂不良少年少女も、この精神的地理を知っており、もし彼等が憂鬱であるとすれば、その故にこそ憂鬱なのであろう。
I
大勢の人々が集まってる場所に於て、人間を弁別する特殊な眼が働くというのは、面白いことである。互に見ず識らずの人の偶然の集まりであり、互の声音の響きさえ知らない人々の集まりでありながら、その中の個々の人物について、年齢、職業、身分、人柄など、大凡のことを一目で見て取るような、そういう眼が存在する。その眼に逢っては、全然得態の知れないような人間は非常に少い。
かかる眼を、大抵の者は持っている。保安警察の事務にたずさわる者、政治や実業や商業に関係してる者、其他挙げれば殆んどあらゆる者となるだろう。芸妓や料理屋の女中や、カフェーや酒場の主婦などは固より、普通の女や少年までがそうだろう。――こんな下らないことを一々挙げたのは、そういう人達がまた、この眼の対象になり易いか
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