ばかりのところ、何やら黒く蹲まっているものがある。さてこそと、武蔵は身を開きざま薬王樹を振被って、気合の声と共に打下した……。
 ――これは勿論、事実ではなく、宮本武蔵黒狐退治の講談の一節の概略である。講談ではあるが、なかなかに面白い。何が面白いかといえば、凡て神通力を得たものは、その偽りの姿を人の前方に現わすと雖も、その本体を常に人の後方に置く、というただその一事である。ただその一事だけではあるが、それだけではあまり素気ないから、少々味をつけて、講談のあら筋をまねてみたのである。この一事の秘訣を知っているのは、ただに神通力を得た妖怪ばかりとは限るまい。文筆の士も往々にして、意地悪い楽しみからそういう悪戯をやることがある。だがそれはほんの余興で、もしそれが常習となる時には、精神はねじけ心情はくらむ。
 然しながら、勝敗を争う方面に於ては、黒狐的方法は、一の戦術として、既に孫呉の昔から闡明されている。当然のことながら、戦争には常にそれが応用されているし、囲碁将棋にも応用されている。――更にこれが、悲しくも、外交にまで応用されるようになったのは、誰の罪であろうか。――更にこれが、一層悲しい
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