で四十日ばかり暮した。そこの少年少女たちの生活に親しむのが主旨であったが、後には、昔そこにいた少年少女たちの生活記録の補綴が主な仕事となった。ところで、親しく談話を交えたり、真裸で河水のなかで共に遊んだり、其他いろいろ、日常生活に於て得た実際の印象と、それから記録を調べて得た知識と、その両者がへんに喰い違って、初めのうち両者どちらにも余り信用がおけない気持になったものである。
このことは、多くの場合に、経験されるところだろう。実際の印象と記録による知識との喰い違いは、よくあることである。だからといって、両者を否定してかかれば何にも得られないことになる。悩みは、両者を如何に案配統一するかに在る。これに比ぶれば、文学の世界の純一性が貴く思われる。文学の世界に於ては、実際的印象と調査的知識とは、創作上の感性によって初めから統一的に運用される。
だが、この問題についての饒舌は止めよう。実は他のことを云うつもりだったのである。
少年教護院というのは、昔の少年感化院である。感化院といえば誰にでも或る観念が浮ぶだろう。然るに私がはいっていた大阪の教護院は、一般の感化院的観念とは、凡そ異った施設がなされてるのであった。その最も大きな一例は学院の構えである。
この教護院は、赤土砂礫の松山の中腹から裾地へかけて、四万坪あまりの敷地を占めている。街道に面して正門が一つ、ぽつりと建っていて、そこには門番は固より居らず、門扉は昼夜開け放しで、ただ門柱を二本立てたに等しい。それだけで、学院には敷地をめぐらす柵さえもない。平地の方面では、学院内の地所と他の地所とが、耕地の畦で区別されてるだけであり、小路は平らに通じており、山手の方面では、地所の境界さえ定かでない。全く四方八方開放されてるのである。
こうした学院の中で、世間では不良だと言われてる二百名余りの少年少女が、勉強し労働しまた遊びまわってるのである。外部からは学院内の各家庭に訪客や商人などが自由にはいって来るし、深夜迷い込んでくる怪しい男までないではない。然し院生等は、時折の登山や遠足などに連れ出される外、無断外出は一歩たりとも厳禁されている。
こうした状態に於て、たとえ厳禁されてるとはいえ、また教師保姆の不断の警告があるとはいえ、所謂不良少年少女の二百余名のうちに、無断外出がないとすれば驚異であろう。そして実際、無断外出は屡々ある。屡々あるが、然し意外に――私などが意外とするほどに――少い。学院の立前としては、外出後の所業だけが問題であって、無断外出はさほど恐れない。余し実際に於ては、恐れるほどに多くはないのである。
これが普通の少年少女であったとしたら、たとえ無断外出を厳禁されたとしても、案外に禁を犯す者が多かろう。然るに院生等には意外なほど少い。特殊の個人には何回も繰返して禁を犯す者もあるが、一般的にはごく少い。これは彼等に対する平素の訓育の効果もあろうし、学院の院風といったものの作用もあろうが、然し、彼等がこの禁制に意外なほど従順なところに、或る人は、彼等自身の憂鬱を見て取る。何かしら過去の所業から来る重圧のもとに、そうした一種の諦めに似た憂鬱さに陥ってるところに、そしてそこには自発的自己鍛錬の心が少いだけに、或る人は、彼等に対する不憫さを覚ゆる。
だが、この或る人の感懐にはまだ私心があろう。吾々の道徳は、大体地理的境界に基くところが多い。吾々は実際、デパートには自由に出入しても、単に品物を見るだけのために普通商店にははいりかねるし、開け放してある人家に好奇心ではいって行くことは出来ない。普通の義理人情や仁義などから、善悪の悟性に至るまで、そこには或る地理的境界というものが考えられる。これは所有権の問題とは全く別物で、公地公道に於てのことである。人の道徳には一種の精神的地理がある。教護院の所謂不良少年少女も、この精神的地理を知っており、もし彼等が憂鬱であるとすれば、その故にこそ憂鬱なのであろう。
I
大勢の人々が集まってる場所に於て、人間を弁別する特殊な眼が働くというのは、面白いことである。互に見ず識らずの人の偶然の集まりであり、互の声音の響きさえ知らない人々の集まりでありながら、その中の個々の人物について、年齢、職業、身分、人柄など、大凡のことを一目で見て取るような、そういう眼が存在する。その眼に逢っては、全然得態の知れないような人間は非常に少い。
かかる眼を、大抵の者は持っている。保安警察の事務にたずさわる者、政治や実業や商業に関係してる者、其他挙げれば殆んどあらゆる者となるだろう。芸妓や料理屋の女中や、カフェーや酒場の主婦などは固より、普通の女や少年までがそうだろう。――こんな下らないことを一々挙げたのは、そういう人達がまた、この眼の対象になり易いか
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