のどちらかにちがいない以上、もうどちらでも同じことだと思った瞬間、不意に、ぎらりと輝いて現れた自動車のヘッドライトを抱きかかえてじっと身をかがめたまま動かずにいる自分に気がついた。
ああ、もう死ぬところだった、そう彼は思って自動車から身を起すと、それではいっそのこともう死んでしまったものとあきらめようと思って、家に帰って来た。
[#ここで字下げ終わり]
これだけである。勿論これには、前後の叙述の重力が加わってはいるけれど、その描写はこれだけである。それがどうして妙に忘れられないのか。特異な事柄のせいであろうか。それもある。が何よりも、ここでは、その特異な事柄が、文学の過剰から免れているから、じかに読者の胸に迫ってくるのである。
横光利一氏の近業には、二つの手法が観取される。一つは、人間の心理の探求に当って、心理の動向の一般的方式を求めんとすることである。もう一つは、人間の運命の推移を、多面的に観察して、その多くの面の綜合によって一の立像組立てんとすることである。前者は[#「である。前者は」は底本では「である前者は」]ややもすれば作品を稀薄にする恐れがあり、後者は作品を濃密にする強みを持つ。そしてこの後者の強みは、「文学以前」のものを大胆にとり入れることによって、更に倍加するであろう。
*
近代文学の※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]きの一つは、文学の過剰を擺脱せんとすることにある。
その最も顕著な例は、新らしい心理的探求の方面に認めらるる。
多くの哲学者や心理学者によって、吾々の精神のうちには広汎なる無意識の世界が存在することを、暗示され指示さるるや、表面的な泡沫的な狭小な意識の世界を去って、その深遠広漠たる無意識の世界へ、文学も直ちにとびかかっていった。そしてここで注意すべきは、在来の心理主義が、行為を説明せんがための心理解剖に止まり、ややもすれば、仮定の上に立つ実験室的研究に陥りがちだったのに反して、新らしい心理主義は、精神内部の無意識の世界――現実の世界――を直接に描写しようとする、大なる野心を抱いたことである。「説明のため」から「描写のため」へのこの飛躍は、創作態度としては、また文学の過剰からぬけ出す一方法でもあった。そこでは、構想や表現方法など、凡て文学的扮装は、もはや第二義的な位置しか占めない。
斯くて、超現実主義
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