られ、その生産方法にのみ適用される時、この言葉は、文学そのものを没落させる作用をしかなさない。
      *
 貧困は、生産不足からばかりでなく、生産過剰からも来ることは、近代の常識である。
 文学は一の加工品である。素材に、文学的加工を加えて、文学が出来上る。たとい文学が、生活の現われであり、生活情意の流露であり、或は生活から咲き出た花であろうとも、現わし流露させ花咲かせるところに、加工的な――生産的な――労力が存在する。
 随って、文学を分析して、かりに、素材からくるものを「文学的ならざるもの」とし、生産的労力からくるものを「文学的なるもの」とすることが出来よう。そしてこの「文学的なるもの」の過剰は、即ち文学の過剰であって、文学の過剰は、やがて、文学の貧困を来すことがある。
 問題は、量にあるのではなくて、質にある。作品の数にあるのではなくて、作品の中に含まってる「文学的ならざるもの」と「文学的なるもの」との割合にある。前者が余りに優位を保つ時には、文学の不足――生産不足――を来す。後者が余りに優位を保つ時には、文学の過剰――生産過剰――を来す。
 こういう意味に於いて、文学の生産不足は、文学を「文学以前」に引戻すと共に、文学に対する需要を増加させ、文学の生産過剰は、文学を「文学以後」に押しやると共に、文学に対する需要を減少させる。
 嘗て、音楽について、「余りに音楽が多すぎる。」と叫ばれたことがあった。文学についても、「余りに文学が多すぎる。」と叫ばれるかも知れない。否、それは既に叫ばれている。
 文学の過剰に食傷した精神にとっては、「文学以前」のものが、新たな魅力を帯びてくる。
      *
[#ここから2字下げ]
 太陽は落葉の床の中に金色のちかちか光る足で飛び込んで来て、落葉は羽蒲団よりもふかふかして暖になった。彼女はその中で、冬枯れの草の根の様にうっとりとして横になって居た。
 陽がおちると森の中は扇をたたむ様にぱたぱたと暗くなった。そして彼女の心にも黒い羽根がとじられて夜の様な陰欝がたれさがった。

 夜は蛭に似た口で落葉から昼の暖かさを吸い取ってしまった。彼女はがたがたふるえて、こわばりかけた体をむりに引き起すと枯枝に火をたきつけた。火は闇を引きさいて、彼女の苦しさを幾分軟げた。
 暫くたつと夜は彼女にねむりをなげつけた。彼女はあらゆる悲しみと
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング