ないけれど、然し作家は大抵、先駆者でありまた大愚であって、当面の政策に対する関心よりも、将来への夢を多く孕むものである。斯くて、作家が真剣に実践する文学は、生活の慰安ではなくて生活の推進力となり、比喩的に云えば、生活から咲き出した花ではなくて生活を育てる養液となり、更に云えば、あったこと若しくはあることの表現ではなく、あるべきこと若しくはあり得ることの表現となった――少くともそういう観念となってきた。而もこの中心的な本質的な核をつつむ肉体の生成は、社会的なまた経済的な広い視野と、科学的なきびしいリアリズムの精神とで、なされなければならないというところにまで立至っている。
こういう文学が、はげしい現実の跳梁と重圧との下に如何に困難であるかは、自明のことであろう。だから前に述べたような事情によって、或は素朴な感動に還るといっても、或は素材の力に頼るといっても、或は現実の認識を深めるといっても、それには大抵「先ず」の一語が冠せられ、その「先ず」からさきの見通しは、模糊として薄暗いのである。作家が文学を実践するに当って、文学という言葉は既に実感としては甚だ空疎な響きしか持たず、それでもやはり文学には違いないのである。――斯くて、作家達は各自にそれぞれ特別な肚の据え方をして、或は観念的に或は方法的にいろいろの探究をなし、極言すれば、文学ジャンルの進展を夢みてる者もあろう。
斯かる事態から、当面の混乱と行詰り的現象が生じている。然しながら、やがてはそれがつきぬけられることを、文学――に今では淡い実感しか盛られなくなっているが、他日濃い実感が盛られるであろう文学に――私は信頼したい。要は、文学の持つプラス的なものが如何にして強力に確立されるかに懸っている。
茲まで云ってきて、私はただ云いっ放しにしておこう。この間の事情の闡明や見通しは甚だ厄介なことであって、且つ、文学実践によって表明せらるるのを待たなければならない。いろいろの情勢上、さしあたっては悲観的ながら、然し文学は常に楽観的な夢を根強く持つものである。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
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