土と兵隊」のはじめの方に、或る兵が船の甲板から、千人針の布を海中に落し、泳ぎを全く知らない身でありながら、その布を追っかけて海に飛び込み、布を掴んであっぷあっぷやってるところを、水兵から救いあげられる、という件であるが、あれは事実ではなく、実は、その兵は自ら海に飛びこみはせず、水兵に頼んで千人針の布を拾ってもらったのであると、筆者が語ったそうである。ところで、その事実よりも、千人針の布を追っかけて兵が自ら海中に飛びこんだとする方が、その兵の感情を浮出させるし、敢て云えば真実性を昂揚する。こうした例は、所謂素材主義の作品を仔細に検討してみるならば、至る処に夥しくあるであろう。そしてこれは、全く文学的表現方法、伝統的な方法なのである。
 斯くて、部分的には在来の文学方法が安泰としているのに、作品全体を貫く方面に於て、即ち構想とか現実整理とかの方面に於て、在来の文学方法に疑念が持たれ、それと共に素材の力が前面に押出してきた、というところに問題がある。
 多くの読者は、現在、文学作品を文学として鑑賞しながら読んではいない。そのうちで、いろいろの原因から来る作品の質の低下と相俟って、酷しい現実を紛らすための娯楽偸安の具として作品を読む多数者のことは、茲では取上げないことにして、ただ、作品のうちに何等かの精神的拠り所、即ち広い意味で一種のモラールを求めてる人々のことを、考えてみたいのである。彼等は文学鑑賞の愉悦を知らないわけではあるまいが、それを楽しむだけの余裕を持たず、もっと直接に、現在の激しい事態のなかに於て、自分の精神を支持したり鞭打ったり、導いたりしてくれるもの、または希望を与えてくれるもの、直接的なモラールを要求しているのである。島木健作氏の「生活の探究」の読者のうちの善い者は、そういう読み方をしているだろう。――こういう読み方は、一方では文学を進展させる動力となると共に、他方では文学を混乱させる素因とならないとも限らない。
 作家の方でも、現代では、右のような読者の要求に応じたい意図を多分に持つことは、現代文学の性質上、当然のことであろう。そしてそういう意図の上に、私の所謂文学のプラス的なものの自覚が加わって、茲に、換言すれば、作家の側でも文学の観念が変ってきた。世に宣伝されてる国策文学などの影響のことを云うのではない。固より、その影響も或る方面には多少あるかも知れ
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