まりは構想力の成果である。

 小説の面白くないことが、久しく説かれた。面白くないとは、筋の発展の少さを意味したようだし、その原因が構想の不足に帰せられたようだった。然し文学上の構想は、そのように安易に理解されてはならない。
 彫刻家の製作現場を見物する時、吾々は、その鑿の運進に技術以上のものを感ずる。徐々に描き出される線や面は、他の大きなものに統制されて、やがて一つの立像のうちに生き上る。この過程に於て全体を統制するもの、それが芸術的構想である。
 小説創作も、彫刻製作に等しい。書かれる文字の一つ一つは、鑿の運進の一つ一つである。そして人物像が出来上る。このことを理解する者は、例えば、川端康成の作品に構想が乏しいなどとは考えないだろう。そのエロチシズムは別として、またその歌は別として、その人物立像は構想によって打ち立てられたものである。
 人物像の彫り上げには、すべて構想力が基本的に働く。何等かの観念や思想を具象化せんとする際には殊にそれが顕著である。観念や思想を多分に作中に盛りこまんとする横光利一の創作苦心の多分は、恐らくは、構想の線上に在るであろう。その観念や思想の重荷を担い得るものは、ただ構想力のみである。
 構想は本来、小説を面白くするものではない。場合によっては面白くなくさえもする。それでも構わず、吾々は常に構想力を要望する。これなくては、新たな性格の探求は出来ないし、性格の立像的描出は更に出来ない。構想力の旺盛なるあまり、たとえ作品が面白くなくなっても一向に差支えない。
 斯かる理解を前提として、構想の動きとか発展とかは考えられなければならぬ。さもなくば作品は低俗に堕する。単に平面的な筋の動きだけに終始する。この間の消息は、論文に於ける筋の発展と比較して考察されることが出来る。面白くない論文は、序論から結論に至るまで同一地点に立っていることが多い。中間はただ漫然と平面的に歩き廻るだけである。この種の漫歩を如何に多くしても、真の面白さは得られず、それは却って全体を講議録的な低俗さになすのみである。論文に於ける筋の発展は、構想の発展に裏付けられたものであることを要する。三木清の本格的な論文にそれを見出すことは幸である。
 論文に於ける筋の発展、構想の発展を、吾々は小説にも考える。ここに至って、立像は動き出す。単に動くばかりでなく、動くにつれてそれ自身が成長してゆく。このことは、旺盛な構想力なしには得られない。
 文学は科学と取組むに至るであろう。勝負を争うのではなく、人間の名に於て科学を消化せんがためにである。実際に消化し得るかどうかは問題でない。現実の転位の場に於て、それを消化した人物を予想するのである。この人物が人間としての形態を持続し得るかどうか、生存しきれなくなって破綻の悲運に陥るかどうか、それを見てみたいものである。
 そこに至るまでに先ず吾々は、各種の性格を発掘し或は創造しなければならない。この難路へ突進することに文学は怯懦であってはならない。この際の怯懦は文学を、安易な感傷や低俗な本能に阿諛させる恐れなしとしない。真に芸術的に体得された構想力が要望せらるる所以である。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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