文学に於ける構想力
豊島与志雄

 文学は真実なものであらねばならぬこと、勿論である。この真実は、事実という言葉で置換出来ないことが明示する通り、現実の転位の場にあるのであり、現実の事実の面にあるのではない。
 嘗て、文学の虚構とか小説の嘘とかが説かれた。この虚構も嘘も、不真実を意味するものではなかった。それはつまり、文学が現実の転位の世界に生きてることの例証である。
 このことを、真面目な読者は感じているであろう。例えば、「悪霊」でスタヴローギン公爵の縊死に出逢い、或は更に写実的なものとされる作品、「ボヴァリー夫人」で、夫人の服毒死に出逢っても、読者は、彼もしくは彼女の現実的な死滅に当面しはしない。当面するのは彼等の生活破綻の結末現象にである。読者の誰も彼等の死体に取り縋って泣きはしない。彼等はそこに現在、そしてまだ将来にも、生きている。死は現実の転位の場にある。
「麦と兵隊」及びそれと同系列の作品は、記録的なものとされている。確かに記録的なものではある。然しそれが持つ真実性とか誠実性とかいうものは、事実の面にあるのではない。最も迫真力ある焦点的な場面が、如何ほど事実の線から構成の線へと外らされているかは、作者に問い糺してみるまでもなかろう。かかる場合の構成は、現実の転位の場に於て為される。
 戦時中、多くの記録文学が出た。従軍記もあり、戦争体験記もあり、各方面の職場視察記もあり、各職場からの報告記もあった。単に記事ではなく、記録文学と呼ばれるだけの文学的扮飾が施されたものであった。茲に、文学的扮飾というような言葉を使わねばならないのは、遺憾である。それは事実の技巧的な按配を意味する。その安易な創作方法は、高度な芸術的営為によってのみ得られる文学の真実性を取失いがちである。
 同時に、多くの作家は戦争指導者の権力に阿った。文学を直接宣伝の具に供せんとする功利的要求が権力者の側にある時、それに阿ねる場合、作品は所謂大衆文学の浅薄なるものに堕ちる。記録文学の浅薄なるものが事実的場面の按配に専念する如く、大衆文学の浅薄なるものは観念的場面の按配に専念する。そこに意図される功利性、実用性は、芸術の真実性を駆逐しがちである。
 一般に、個々を問わずただ一般に、右のような風潮が浸潤してるなかから、吾々は出発しなければならない。出発して脱出しなければならない。先ず回復すべきは、
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