、あらゆる点に活気が乏しい。見ようによっては病身らしく思える身体を、椅子にぎごちなくもたせて、動作は鈍く、黙りがちにぼんやりしている。精力の発露などはあまり見られない。
然しながらこれは、体躯の大小は別として、日本人に精力が不足してるからだとばかりは云えない。第一に、日本人は余りに自然に親しみすぎている。伝統的に自然の息吹きに感染しすぎている。だから、明媚な風光に接する時には、家郷的な親しみが深く、おのずから保養的な気分に静まることが多い。自然を享楽する意味合よりも、自然の中に自らを保養する意味合の方が多い。
第二には、日本人の社交性の乏しさが挙げられるだろう。ただ茲に、注意すべき一事がある。日本人は、太平洋の中に浮んだ一隻の船に乗合わしてるようなもので、日常他国人との交渉も少く、お互同士の社交性はさほど必要でなかったに違いない。それ故にか、或は他の原因でか、日常の私生活に於て、妙に精力を蓄積する術を心得ている。汽車や電車の中などで寸暇をぬすんで仮睡する才能なども、その一つの現われであろうか。下らなく動き廻ったり饒舌り散らしたりすることは、精力の消費と考えられ易いのである。それに近い道徳もあった。
それはそれとして、新たな風潮が起りかけている。主に銀座を舞台とする、新時代人の野性的な交際や論議である。飲酒や漫歩や饒舌が、もはや精力の浪費ではなく、直ちに精力の原動力であり、更に云えば、直ちに思惟そのものとなる。それによって、仕事の能率は倍加されるのである。銀座を多欲的生活の享楽地としてる人々を謂うのではない。銀座を一種の在野的サロンとしてる人々を謂うのである。こういう人々のために、銀座は明朗な清純な一隅を用意してやらなければなるまい。
H
女学生の「キミ、ボク」の言葉が教育界の問題となった。だが、こういう言葉を使ってる女学生は甚だ少数で、而も一般女学生からは顰蹙されている。こういう言葉は恐らく、有閑マダムか女給などの間に発生し、新聞の娯楽面や或る種の小説などで宣伝されて、急に拡まったものであろう。
こういう種類の言葉を若い女たちが使用する心理のうちには、単なる物珍らしがりの外に、新しい礼儀作法への翹望が、漠然とではあろうが含まれている。女の礼儀作法は急激に変革しつつある。二三言云っては低くお辞儀をし、また二三言云っては低くお辞儀をし、かくて際限もなく続く応待の仕方などは、今では甚だ珍妙なものとなってしまった。街頭で夫人同士が出逢って、そういう挨拶をしてるうちに、洋髪のピンが弛んで、付髷が地面に落ちたなどということは、数年前のことながら、今では昔の笑い話としか受取れない。
今では、若い懇意な間柄では、いきなり握手をすることさえ行われ、それが相当身についてもきた。だが不思議なのは、最も伝統的な古い組織の中に生きてる芸妓仲間では、往来などで行き合う時、立止って話をする必要もない場合には、頭と目差との僅かな微妙な動かし方だけで、一切の挨拶が済んでしまうことになっている。こうした作法の簡易化は、決して礼儀の乱れたことを意味するものではない。
所謂遊ばせ言葉は、上流婦人の間でも急激に退化しつつある。だが、「さよなら。」の意味で使われる「御機嫌よろしゅう。」の一語は、充分に生きているし、殊に電話などで最後に云われた「御機嫌よろしゅう。」は、快い響きを耳に残す。
作法や言葉は、殊に女の場合、身につくかつかないかということに微妙な問題がある。それは各個人的なそして全身的な事柄であって、抽象論は用を為すまい。女にとって最も非美的なのは標準作法や標準語であると、こう逆説的に云えば、それは女を文化的に軽蔑したことになるであろうか。
I
ラジオの演芸のために、晩酌の習慣がついたとか、或は晩酌の銚子が一本殖えたとかいう話を、屡々聞く。
凡そ晩酌ほど愚劣な風習はない。フランス料理につき物の葡萄酒と違って、日本酒は、必ずしも日本料理につき物ではなく、単にアルコール性飲料との意味合を多分に持つ。その日本酒を家庭で毎晩、而も家長或はそれに類する人だけが摂取するということは、隠居という観念が死滅した現代では、全く意味を為さないばかりか生活力の減退を来す。禁酒の必要はないが、晩酌の禁止は必要である。健康上から云っても、毎晩一定量の酒を飲むことよりも、一週に一回ほど徹底的に飲酒する方が、まだ無害であり、殊に精神的にはそうである。
この晩酌を助長するようなものが、ラジオの演芸放送に果してあるのであろうか。罪は勿論、晩酌をする本人にあるであろうし、或はラジオの聞き方にあるであろう。だが、演芸と云えば、恐らく日本演芸のことであろうし、日本演芸には、酒の座席にふさわしい情緒、或は生活逃避的な気分が、伝統的にあった。昔は、歌舞伎芝居も飲食しながら見物されたものであるし、講釈も昼席で枕をかりて寝転びながら聴かれたものである。所謂国粋的演芸ばかりでなく、現代の流行小唄が如何なるものであるかは、人の知る通りである。
現代の苦渋な生活に、慰安や娯楽は固より必要である。また、殊に現時の事変下の生活に、晩酌は断じて不用である。この間の矛盾を解決するものは、恐らく将来の科学的テレヴィジョンでもあろうか。ラジオの放送当事者も聴取者も、一考すべきであろう。
J
日本人には含羞的性質が多分にあると云われている。世間体とか人前とか体面とかいう事柄に対する関心は、その現われであろう。然るに、この含羞的と凡そ反対なものの一つに、洗濯物の処置がある。身につける如何なる物も、それが洗濯盥から出て来たものでさえあれば、屋上や軒先にへんぽんと飜えして憚らない。高架線の電車の窓などから見られる東京市の壮観は、洗濯物羅列を以て第一とするとさえ云われる。
入浴を好む者はまた洗濯をも好む。否、これは好みではなくて、既に身嗜みの一つであろう。羽二重の裏をつけた木綿の半被をひっかけ、素足に草履をつっかける、そうしたいなせな風姿が昔は市民の風俗のなかに確立されていた。この羽二重の裏も素足も、特殊な身嗜みから出発したものであろう。如何に襤褸をまとおうとも、肌には垢をためず、肌につけるものは清潔にしておくということが、一つの矜持として、根深い伝統になっている。首を切る或は切られることが、首筋を洗って云々の言葉で表現されるには、かかる風習の裏付けがあって始めて可能であろう。現在でも、衣類の襟垢の有無は、人柄を判断する一つの鍵とされることがある。庶民の家婦の仕事のうちで、洗濯は重要な部門となっている。
然るに、洗濯物の処置については、一向に考慮が払われていない。これは、日本の家屋が、都会にあってさえ、集団住宅でなく個別住宅である故もあろうし、また湿潤な気候のために、壁の中に窓があるのではなく窓の中に壁があるという、そうした構造になっている故もあろう。かくして常に、屋上や軒先に洗濯物がへんぽんと飜えり、此処だけは、世間体とか体面とか羞恥心とかは打忘れられて、自他共に怪しまない状態になっている。
アパート其他の集団住宅では、既に、洗濯物の処置について多少の考慮が払われているようだが、それも全く、多少のという程度に過ぎない。窓の中に壁があるような構造を必要とする気候であり、個別住宅が主となっている現状に於て、都市生活のことを考慮する者は、洗濯物の処置についても更に一考すべきであろう。
K
東京に於て、新たに、二つの生活的ルンペン性が見られる。
一つは、頸白粉の若い女たちである。旧市域の辺境あたりに多い。恐らくは、カフェーやバーなどの後を追って著しく殖えた小さな特殊飲食店、小料理屋とかおでん屋とかの女中たちでもあろうか。平素どんな生活をしているのか、私は知らない。
彼女等は、朝から、顔は素肌で、清い血色の少い或は濁った血色の多い皮膚をむきだしにしているが、耳から※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]へかけた一線より下の頸筋には、真白に白粉をぬりたてている。前夜の白粉をそこだけ洗い残しているのであろう。襟白粉ではなくて、全く頸白粉の語がふさわしい。
頸白粉の彼女等には、生活の放逸性さえももはやなく、ただ生活のルンペン性がある。もう彼女等は、普通飲食店の女中は勿論、カフェーやバーの女給をさえも、勤め難い状態に立到ってるがようである。
第二は、草履ばきで、多くは板裏などの草履ばきで、小料理屋やおでん屋などに立現われる、蒼白い若い男たちである。浅草や江東などに多い。
彼等の草履ばきは、昔のいなせな兄い連のそれと異るのは勿論、現代の大工や植木屋など、道具箱をかついでさっさとした足取りのそれとも、全く異るのである。そしてその足先は大抵よごれている。労働の泥ではなく、怠惰の埃をかぶっている。彼等がどういう生活をしているか、私は知らない。彼等は殆んど怒鳴ることなく、喧嘩することは更になく、酔っ払うことも少く、ひそひそと語り、ちびちびと飲んでいる。
その打明話はこんなことに帰着する。――解雇されないからぐずぐず働いてるようなものの、店はいつつぶれるか分りはしない。転業が問題になっているが、自分の転職も、さっぱり見当がつかない。そして、十時に街路は戸が閉り、街灯だけが明々として、電車の走ってるのも淋しく、何だか自分が世の中から取残された感じだ、云々。
商店法に依る十時閉店の街路は、多くの人には生活緊張の感を与えるものであろうが、或る種の人には、世の中から自分だけ取残されたという感を与えるものらしい。否、与えるのではなく、そういう感を受取るものらしい。そして彼等のうちには、おそろしく平凡低調な善良さだけがあり、そこに生活的ルンペン性がひそんでいる。
都市の中心から外れた小料理屋やおでん屋に巣喰ってるところの頸白粉の女や板裏草履の男――而もまだ若いそれらの男女は、何によって救われるのであろうか。
L
日本の神社には、大抵、鳩と亀と鯉とがいる。そして大抵、大勢の子供たちがそれらに餌などやって遊んでいる。この風景は、如何なるものよりも微笑ましい。例えば、公園や動植物園やまたは特殊の有料遊園などの、如何なる風景を取ってきても、右のものには及ばないだろう。そしてこれは、日本的なものの一種の象徴の域にまで高まるものを持っているし、支那大陸に相通ずるものを持っている。神社の清いのびやかな境内で、鳩と亀と鯉とに戯れてる朗かな子供たちの写真を、故国を想う出征兵士たちに贈りたいものである。
M
子供――殊に幼児――を連れて外出するということは、次第に少くなりつつある。この現象は列挙すればいくらもある。劇場や映画館で子供の泣声が聞えることは、甚だ稀になったし、子供の姿を見かけることも少くなった。百貨店内でも同様である。電車の中でも、子供の数は著しく減少しているようである。また往来で、乳母車を見かけること少く、背に子供を負った者は固より、胸に抱いてる者まで、甚だ少くなった。普通の交際で、子供連れの客が減少したことは、どこの家庭でも知っているだろう。
このことは、一般の家庭に於て、殊に若い母親の方面に於て、子供の取扱方が異ってきたことを意味する。つまり、子供というものが、母親を初め大人の身辺から、或る程度切り離されて、家庭内で一個の存在となってきたのであろう。――育児ということが、具体的に新たな意味を持ってきた。
ところで、映画館や百貨店などの人込みの中から、或は大人の背中に結びつけられることから、或は他家のもてなしの不馴れな食物から、或は母親の身辺への盲目的な密着から、子供が解放されるということは、子供のためによいことであろう。――乳不足の若い母親が多くなりつつあるのは、憂うべきことながら、その代りに、牛乳や人工乳が発達してきたことは、子供のためによいことであろう。育児上の種々の知識を以て、傍から見守られることは、子供のためによいことであろう。――然しながら、種々の意味で解放され且つ見守られてはいても、家庭内で、子
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