ではどうだ、と使の者に云ったものです。博士様ならなお結構だ、と朴訥な作男は答えます。
そんな工合で、僕がまあ代りに行くことになって、顎骨の脱臼をはめこむ仕方をいろいろ教わって、作男に案内されて出かけました。
ところが、顎の骨をはめこむことは何でもないが、ひどい危険が伴う、うっかりしてると指を食い切られる、とそう先生におどかされたものですから、僕は途々心配でたまらなくなりました。そして、教わった方法をいろいろ考えてるうちに、ふと気懸りな一事につき当りました。するともう何の余裕もなく、いきなり男に尋ねたものです。
「君、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が外れたって、その外れたのは上か下か、どちらなんだい。」
「さあ、どっちだったかな。」と男はしきりに考えています。
こう話してしまえば笑い話ですが、その時は実際、外れた※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の骨は上か下かと、ひどく心配したものです。下※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の骨をはめこむことしか教わっていなかったものですからね。そして僕は頭の中で、人体の骨格や解剖図をくり拡げました。が遂に……それが分ると一人で笑い出してしまいました。作男はきょとんとしています。
そして兎に角、若い豪い博士として向うの家に乗り込んで、顎骨の脱臼を直してやりました。美事な腕前でしたよ。
御隠居はもうけろりとしています。家の人達は大変な喜びようです。酒樽の栓がぬかれる、鶏がつぶされる、芋の皮がむかれる……何でもかでも御馳走になってゆけというんです。僕もとうとう腰を据えました。十六七の、それは全く鄙に稀な綺麗な娘がいた……からでもありませんがね。
その娘が、まるで十二三の子供同様に無邪気ではしゃぎやで、メリンスの着物をつんつるてんにきて、一人で家の中を飛びまわっています。僕は面白く思って、すぐに親しんで、それから人前では云われませんが、御隠居の※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の外れたのが上か下かと途中で心配したことを話してきかせました。彼女にはその可笑しさが腑に落ちないようなんです。そこで、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の骨は上と下とが外れるので、どちらか一方が外れるのでないと説明してやりますと、初めてくすくす笑い出しました。
それから彼女は何と思ったか、裏の方で鶏を料理してる父親の方へ走って行きました。そして、お祖父さんの外れた※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]は下か上かと父親をからかっています。その声をきいて、僕は一人でしまったと思いました。するうちに、高い彼女の笑い声がして、暫くするとこう叫んでいます。
「下※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が外れた、下※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が外れた。」
父親の叱る声がします。彼女のふざけてる様子が眼に見えるようです。と、不意にしいんとなって、それから一時に大勢の人々の叫び声がしました。
僕はびっくりして、呼ばれるまでもなく走って行きました。見ると、彼女は高い縁側から、風呂場に通ずる踏石のその角のところへ、前のめりに落っこっています。口が血で一杯です。その口一杯の血をかみしめて、泣声をこらえています。
余程ひどく打ちつけたと見えて、上の前歯二枚を折り、下唇に裂傷を受けていました。僕は一寸した外科用の道具を用意していましたので、応急の手当をしてやりました。そしておいて、もう御馳走どころではありません。こそこそとその家を逃げ出してしまったものです。
その娘が、舞踏病の女の子の若い母親だったのです。僕はその忘れられない昔のことを思い出して、全く夢でも見てるような気持で、彼女の……どこに出しても恥しくない、新式の束髪や整った顔立を、それでも昔の面影の残ってるその顔立を、微笑みながら眺めました。彼女は怪訝そうに僕の顔を見返しています。
僕はだしぬけに、彼女の郷里を確かめてから、昔の話をもち出したものです。
「まあー、先生があの時の!……。」
云いかけて彼女は、何と思ったか不意にぱっと顔を赤めました。と、僕も、どうしたのか訳もなく、真赤になってしまいました。
右の話を終ってから、N医学士は、ははははは……と腹の底からこみ上げてくる急激な笑い方をした。まるで発作的な笑の舞踏病にでも罹ったかのようだった。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティ
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