親の方へ走って行きました。そして、お祖父さんの外れた※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]は下か上かと父親をからかっています。その声をきいて、僕は一人でしまったと思いました。するうちに、高い彼女の笑い声がして、暫くするとこう叫んでいます。
「下※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が外れた、下※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が外れた。」
 父親の叱る声がします。彼女のふざけてる様子が眼に見えるようです。と、不意にしいんとなって、それから一時に大勢の人々の叫び声がしました。
 僕はびっくりして、呼ばれるまでもなく走って行きました。見ると、彼女は高い縁側から、風呂場に通ずる踏石のその角のところへ、前のめりに落っこっています。口が血で一杯です。その口一杯の血をかみしめて、泣声をこらえています。
 余程ひどく打ちつけたと見えて、上の前歯二枚を折り、下唇に裂傷を受けていました。僕は一寸した外科用の道具を用意していましたので、応急の手当をしてやりました。そしておいて、もう御馳走どころではありません。こそこそとその家を逃げ出してしまったものです。

 その娘が、舞踏病の女の子の若い母親だったのです。僕はその忘れられない昔のことを思い出して、全く夢でも見てるような気持で、彼女の……どこに出しても恥しくない、新式の束髪や整った顔立を、それでも昔の面影の残ってるその顔立を、微笑みながら眺めました。彼女は怪訝そうに僕の顔を見返しています。
 僕はだしぬけに、彼女の郷里を確かめてから、昔の話をもち出したものです。
「まあー、先生があの時の!……。」
 云いかけて彼女は、何と思ったか不意にぱっと顔を赤めました。と、僕も、どうしたのか訳もなく、真赤になってしまいました。

 右の話を終ってから、N医学士は、ははははは……と腹の底からこみ上げてくる急激な笑い方をした。まるで発作的な笑の舞踏病にでも罹ったかのようだった。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティ
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